じじぃの「老いはつねに無残である・老人力!百の旅千の旅」

鳥越俊太郎のひと言 「老人力」に思う(10/05/25) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=khjafWmgWY0
【kotoba】超老人力を持つかっこいい老人たち - 第10回 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=THEZZGuxEb0
御歳80戸川昌子さん,ますます元気なライブでのメッセージ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=0PHQzsXC1Hg
Viagra! Best Commercial! 動画 YouTube
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『老いの超え方』 吉本隆明/著 朝日新聞社 2006年発行
老人というのは「超人間」と言ったほうがいい…… (一部抜粋してます)
老人は、精神的にもっと上のことを考えている。
つまり看護婦さんを起こしては悪い、申し訳ないと思っているのです。
しかし、何かを行おうという思いと、実際の運動性の分離がものすごく広がっているということなのです。
普通の年齢より広がっているというのが老人だと解釈できる。
これは極端になると、ものすごく食い違ってしまう。
これは意志力や精神の方向性と、実際の身体の動きというのが、老人のほうが間隔が広がって分離されていると考えたほうが納得できる。
今の病院では、なおさら食い違ってしまいます。
しまいには、これは駄目だと言って若い人と老人は分裂する一方ではないか、というのが僕の解釈です。
意志と実際の行動の分離が拡大することを鈍いと解釈すると、そうなってしまう。
そうでなくて、それは「超人間」的に分離したと解釈すると、両方で納得できるわけです。
音をなるべく立てないようにベットのそばに簡易トイレを持ってきて工夫しても、どうしても音を立ててしまいます。
それで看護婦さんは気づいて駆けつける。
「そんなに気にしなくてもいいですよ」と言ってもなかなか通じないのです。(笑)。

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『百の旅 千の旅』 五木寛之/著 小学館 2004年発行
老いはつねに無残である (一部抜粋しています)
ムザンという字はどういう字だったのだろうと迷う。<無残>と書いてしまえば簡単だが、それではいまひとつ感じが出ない。
辞書をひいて、ようやく<無慚><無慙>などの字などの字を思い出す。しかし、どこか倫理的な雰囲気があって、ちょっとちがうな、とも思う。
<老いはつねに無残である>というのは、もっと身体的、日常的なことに関しての実感だからだ。
最近、『老人力』という本が話題になって、あちこちで、<老人力>をつけよう、などという記事を見かけるようになった。『老人力』とは、いいネーミングだ。字を見ているだけでも、なんとなく心強くなってくる。
しかし、やはり老いというのは無残なことであって、1日に何度かは、「やれやれ」とか、「あーあ」とか、ため息をつくことのほうが多いのはいたしかたない。
それも精神的なことより、もっとフィジカルな問題として「やれやれ」なのである。若いころに戻りたいなどとはけっして思わないけれども、老いてエントロピーが増え、つまり乱雑さや無秩序の度合いが増えていると、しみじみと身にしみて感ぜられるのだ。
たとえば、朝起きると体の節々が痛い。目には目ヤニがこびりついている。なんとか起き上ってトイレにいくと、小便は気持よく出ない。60歳を過ぎた男性で、若いころのようにシャーッと勢いよく噴出する人がいたとしたら、それはめずらしい例だろう。大なり小なり前立腺に問題が出てきているのが普通の60代だろう。
頭がぼんやりして仕事をする気がしない。歯に落ち着かない感じがある。もう10年近く歯を修理していないので、そろそろ限界がきたらしい。
66歳になったという意識が、急に行動を減速化させて、することなすことすべてが緩慢になってくる。食欲も以前ほどはなくなった。髪の毛が細くなって、いかにも力を失った感じがある。10代のころはバリバリゴワゴワの剛毛をうとましく感じたものだったのに。
固有名詞がまったく出てこなくなった。ついさっきまで考えていたことがなんだったのかさえ忘れることがある。面と向かって話をしている相手の名前まで失念することがあるのだからやりきれない。それを嘆くエネルギーさえ失われて、ただ空しく苦笑するしかない。
正直なところ、年をとるというのは情けないことだ。人は無残に老いるのである。
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21世紀まだ、あと何年かの余裕がある。もうすぐ、といわれても、この<あと何年>かが問題なのだ。
「来年のことを言うと鬼が笑う」
などとよく言う。昔は、なぜ鬼が笑うのだろうと不思議に思っていた。いまになってみて、その言葉が妙なリアリティーをおびて感じられるようになった。
来年のことをあれこれ語るだけでも鬼に笑われるのだ。まして2001年のことを、あれこれ想像することは、まことに笑止なことだろう。
今日1日、あした1日、それが勝負なのであって、21世紀のことなど問題ではない。
とはいうものの、よく聞かれることのひとつが、この、
「21世紀はどうなる」
という問題だ。私見では、などと鬼に笑われることを承知で妄想を語れば、21世紀という時代は<宗教ルネサンス>の時代になるのではあるまいか。
20世紀という時代は文字通り<科学の世紀>だった。文化のメインストリームが科学であった。という意味で<科学の世紀>と言っていいだろう。
しかし、しごく大ざっぱな言いかただが、やがてきたる時代とは、科学で解明しつくせない世界の再発見であり、再評価の時代になるのではあるまいか。21世紀を<宗教ルネサンス>の時代だと思うゆえんである。
新しい宗教の時代とは、はっきりした目的をもった宗教が動き出すということだ。宗教に目的なぞ不要という見かたも一方にはあるだろうが、時代は宗教に孤高の塔にこもることを許さないことだろう。
きたるべき宗教の目的とは何か。それは「人生には意味がある」ことを、人びとにはっきりと指し示すことではないだろうか。
「自分の存在には意味がある。人生には目的がある。人間にはすべて生きる目的があり、意味のない人生などというものはない」
そのことをはっきりと、すべての人が納得できる形で知らしめること、それが新しい宗教の担(にな)う役割ではないかとぼくは思う。

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どうでもいい、じじぃの日記。
五木寛之著『百の旅 千の旅』という本に「老いはつねに無残である」があった。
「老いはつねに無残である」か。
「それも精神的なことより、もっとフィジカルな問題として『やれやれ』なのである。若いころに戻りたいなどとはけっして思わないけれども、老いてエントロピーが増え、つまり乱雑さや無秩序の度合いが増えていると、しみじみと身にしみて感ぜられるのだ」
五木さんは1932年生まれだ。もう80歳の方だ。
じじぃも65になったが、不思議と「若いころに戻りたい」とは思わない。若いということは「可能性がある」ということだが、どこか「無知」に繋がるところがある。
エントロピーとは、「乱雑さ」のことだ。たとえば、コーヒーを放っておけば、冷めていき自然に温かくなることは起こらない。つまり、すべては放っておけば秩序が崩壊して混ざり合い、最終的には一様なさまになっていく、ということを意味する。
宇宙は137億年前ビッグバンで誕生した。今年のノーベル物理学賞を受賞した3人は宇宙の膨張に関してだった。宇宙は膨張しており、その膨張の速度が加速に転じたことが明らかにされた。宇宙もまた、エントロピー増大の方向に向かっているのだろうか。
「朝起きると体の節々が痛い。目には目ヤニがこびりついている。なんとか起き上ってトイレにいくと、小便は気持よく出ない。60歳を過ぎた男性で、若いころのようにシャーッと勢いよく噴出する人がいたとしたら、それはめずらしい例だろう。大なり小なり前立腺に問題が出てきているのが普通の60代だろう」
じじぃも朝起きると、目が開かなくなった。スマートフォンで画像を拡大するとき(やったことはないが)、指で広げるしぐさをするが、あれと同じように2本の指でマブタを広げないといけなくなってしまった。
目ヤニがついて、水で洗って流さないと、いつまでもこびりついている。
じじぃは夜中に何回もトイレに行く。小便はチョロチョロ小便だ。便器の前で足のつま先を立て、少し前かがみになって上下に体を揺さぶると、小便が出やすくなる。コツは出そうになっても20秒ぐらい我慢して、一気に出す。
「21世紀まだ、あと何年かの余裕がある」
1999、2000、2001年と年が変わっても、どうということがなかったなあ。ノストラダムス大予言もなかったし。
「自分の存在には意味がある。人生には目的がある。人間にはすべて生きる目的があり、意味のない人生などというものはない」
これは分からない。
人生には目的があるのか、ないのか。ただ生きていられるだけ、ありがたいと思う。