じじぃの「人の死にざま_780_岩城・宏」

岩城宏之 - あのひと検索 SPYSEE
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金沢を愛した指揮者 岩城宏之 (1/3) 動画 YouTube
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金沢を愛した指揮者 岩城宏之 (3/3) 動画 YouTube
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岩城宏之  フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
岩城宏之(いわきひろゆき、1932年9月6日 - 2006年6月13日)は、日本の指揮者・打楽器奏者。
【人物・生涯】
東京府にて大蔵省専売局の官吏の第5子として生まれる。小学校に入学して間もなく父の転任で京都に転居。9歳で木琴を始める。小学校4年の3学期で東京に戻る。
1951年、学習院高等科卒業。東京大学独文学科への進学を志していたが第二次試験の前の晩に高熱を発して受験を断念。現役で東京芸術大学音楽学部器楽科打楽器部に進んだが、1年生の終わり頃から学内規則を破って近衛秀麿のオーケストラでティンパニを演奏し始め、1年分の単位も取得しないまま6年間在学ののち中退。当時の東京芸大音楽学部には専攻によって根強い差別が存在し、作曲科と指揮科が階級の最上位に属し、次いでピアノ科、その下が弦楽器科、残りは全て「被差別民族」であり、その中で最下位に属するのが管・打楽器部で、特に「タイコは管・打というように、順番からして管の次なのだから、タイコ屋は、下層中の下層、少数中の少数で年中差別を感じているような状態だった」「ピアノ科の女の子とつきあおうとして、『お父さまにタイコの人なんかと友達になっちゃいけないっていわれた』なんて追っ払われたことが何度もある」と岩城は語っている。
1977年、急病のベルナルト・ハイティンクの代役として、日本人として初めてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会の指揮台に登り、ベルリオーズの「幻想交響曲」他を指揮した。翌シーズンのウィーン・フィル定期にも登場、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」他を指揮した。そのほか、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮台にも立った。
1987年、指揮者の職業病ともいうべき頸椎後縦靭帯骨化症を患ったのを皮切りに、1989年胃がん、2001年喉頭腫瘍、2005年には肺がんと立て続けに病魔に襲われたものの、その度に復活し、力強い指揮姿を披露したが、2006年5月24日、東京・紀尾井ホールで東京混声合唱団の指揮後、体調を崩して入院。同年6月13日午前0時20分、心不全のため都内の病院にて死去した。73歳没。
名古屋フィルハーモニー交響楽団初代音楽総監督、NHK交響楽団正指揮者、オーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督、東京混声合唱音楽監督京都市交響楽団首席客演指揮者、札幌交響楽団桂冠指揮者、メルボルン交響楽団終身桂冠指揮者。夫人は、ピアニストの木村かをり。齋藤秀雄門下。同時期の同門に、小澤征爾山本直純東京芸大打楽器科(当時、学年定員2名)ただ1人の同級生に、ジャズドラマーの故・白木秀雄がいる。指揮活動のほかにも、打楽器奏者としての演奏活動、テレビ・ラジオへの出演、プロデューサー、音楽アドバイザー、執筆など多彩な活動を行っていた。

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『旅の途中 巡り合った人々』  筑紫哲也/著 朝日新聞社 2005年発行
小澤征爾 「悪意不在」のマエストロ (一部抜粋しています)
信州・松本で開かれるサイトウ・キネン・フェスティバルは10年を超えて夏の風物詩としてすっかり定着した。その中心である小澤には師カラヤンが創ったザルツブルグ音楽祭のことが念頭にあったにちがいないが、毎夏松本に通っているうちに、近年は私の足もザルツブルグに向かわなくなった。
サイトウ・キネン・オーケストラを世界最高のオーケストラだと私が思っているせいもあるが、近いうえに、地元の熱意に支えられて快い滞在が楽しめるからでもある。
いつも「お客さん」で楽しんでばかりいないで少しは手伝え、ということなのだろう、斉藤秀雄没後30年の今年(2004年)、メモリアル・コンサートを催すので、ついては士会・進行役をやれ、ということになった。
オーケストラにもフェスティバルにもその名が冠されているのだが、斉藤秀雄というのがどんな人物だったのかを知る人は今では少ない。私もよく知らなかった。直木賞は知っていても、直木三十五の小説は読んだ人が少ないのと似ている。外国人にはキネン・サイトウという人物がいたと思い込んでいる人もいるという。
俄か勉強してみて驚いたのは、世界中で活躍している弟子たちが年に一度、松本に集まってオーケストラを組む(なかには普段はソリストとして活躍している人も少なくない)くらいだから、さぞかし慈愛に満ちた恩師なのだろうと勝手に想像していたのに、全く正反対と言ってよいほど容赦のない、きびしい教育者だったことである。
私は小澤征爾が感情を激発させる姿を一度も見たことがない。その彼が斉藤のきびしいレッスンに耐えかねて、裸足のまま外に飛び出し、そのまま帰宅したり、自宅の本棚のガラス戸をくやしまぎれに叩き割ったことがあるという(後の部分は自分では覚えていないと今では本人は言うが)。
それでも彼らが師を慕うのは、海外で活躍してみて、師の教えが正しく、かつ貴重だったと思い当たるからだという。
山本、岩城、小澤はともに指揮法をその斉藤から学んだ。山本は小さいころから、岩城は親友の山本に誘われて半ばいやいや短期間というちがいはあるが、教えられた指揮法のある部分を一番継承しているのは自分だと岩城は今では思っている。
では、斉藤の愛弟子、その技法(メソッド)の正統の継承者と目されている小澤の場合はどうなのか。
実は、小澤はいちど師から「破門」されている。自分の能力を試したくて、貨物船に乗り、スクーターを駆って"音楽武者修行"で世界を回った時で、まだ自分の下で習得すべきものが残っていると思っていた師の不興を買った。だが、出発する東京駅に現われたこの師は当時貴重な外貨(ドル)を黙って小澤に差し出したという。
この旅では指揮者の国際コンクールを次々に制覇するが、帰国後、NHK交響楽団の常任指揮者として楽員と衝突、辞任する(N響事件)。
結果的にはこの事件が「世界のオザワ」を創った。
「もう日本には戻って来ない」と橋を焼き切る心境で再び世界に出た。今でもそうだが、こんなに衣食住に始まって何から何まで「日本的なるもの」が好きな人も珍しい。家族、友人への愛着もひときわ強い。だから、あの事件がなく、どっぷり日本に浸っていたら今の自分はなかったろうと本人が語ったことがある。
「辛い体験だった」とも振り返るこの事件は小澤自身の若気やN響の排他性など個別の事情はあったろうが、オーケストラの指揮者と楽員との宿命的とも言える関係が鋭角的に顕れた事件だと私は思う。
カラヤンの「ドライブ」と「キャリー」の喩(たと)えは、前者が自動車、後者が馬を連想させるが、「キャリー」に合理性があると思えるのはオーケストラのメンバーは機械ではないからである。が、馬が乗り手の技量を瞬時に判定したがるように、指揮者にとって厄介な相手である。それどころか、私の知る限り、彼らのほとんどが内心、指揮者など要らない、自分たちはそれなしでも立派に演(や)れると思っている。世界一のオーケストラ(少なくともそのひとつ)、ベルリン・フィルの首席バイオリン奏者を長くつとめた人物などは、はっきりそう私に名言した。
みな、一流であればあるほど誇り高い上に、岩城宏之説によると「オーケストラの楽員とは一刻も早く仕事を終えて帰宅したいと思っている種族」のことだそうである。
私がベルリンでもウィーンでもなく、サイトウ・キネンを世界一だと思うのは、彼らが自らの演奏に歓びを感じながらやっているのが伝わってくる(しかもレベルが高い)からだが、この同窓会的結合が指揮者小澤征爾にとって安楽な位置を約束してくれるとは限らない。互いが気安いぶんだけ、指揮者と楽員との「宿命的関係」はより顕在化するからだ。
ある年、スキーで肩を痛めた小澤は普段のように腕が振れなかった。するとメンバーから「今年の指揮はちょうど良かった」と好評だった。それまでも「あんまり振られると邪魔だ」「大振りされると困るんだよ、そんなことしなくてもちゃんと弾くから」と言われ続けてきたという。遠慮がないから本音が出る。
「こんな交響楽団が指揮者がちがっただけでどうしてこんな良い演奏ができるのだろう」という聴衆としての体験を何度もしている私は「指揮者不要論」には賛成しない。が、指揮者が本当に「独裁者」になるのは容易ではないことはたしかのようだ。
とにかく、前述のメモリアル・コンサートは演奏者の熱気が聴衆に乗り移り、そこに居合わせただけで幸せな気分だった。そのために私は自分の休みを3日割いたのだが、休み中でいちばん楽しかったのが、「仕事」のはずのこの時間だったことを発見して不思議な気持ちになった。

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『音の影』 岩城宏之/著 文芸春秋 2007年発行
チャイコフスキー バレた同性愛 (一部抜粋しています)
チャイコフスキーは、管弦楽の作品を交響曲を含めて、37書いている。オーケストラ付きの独創曲は、12曲である。世の中で、もっとも演奏される機会の多い『ピアノ協奏曲第一番』や『ヴァイオリン協奏曲』などだ。オペラも10作っていて、『エヴゲニー・オネギン』が最大傑作である。
そして忘れてはならないのがバレエ曲だ。『白鳥の湖』『眠りの森の美女』『くるみ割り人形』なしでは、世界中のバレエ界は成り立たないだろう。
彼は鉱山監督官の子どもとして生まれ、母はピアノを弾き、よい声で歌ったりしたそうだが、家庭が時に音楽的であったわけではなく、チャイコフスキーの楽才に気づいた物はいなかった。
父がモスクワに移り、8歳のとき、初めて正規のピアノレッスンを受けたが、翌年に父が遠いウラル地方に派遣されて、チャイコフスキーの音楽教育も中断した。
当時のロシアでは、音楽の道に進むのは誰も考えなかったことで、チャイコフスキーは両親の命令で、ペテルブルグの法律学校に入学させられ、19歳のとき卒業して、法務省の9等書記官に就職した。4年間、訴訟事務の取り扱いだけをやったが、音楽が好きでたまらなかった彼は、役所を飛び出したそうだ。
辞典で経歴を見てみると、かなり変わった出発をしている。
新進作曲家として名が出たころ、チャイコフスキー音楽の大ファンで、鉄道経営者の未亡人のナデジダという女性が、6000ルーブルの巨額年金を申し出て、この援助は13年続いた。
この夫人との関係は実に不思議で、自分の作品を献呈したり、文通による交際だけで、ただ一度の偶然のめぐり合いを除いて、一生涯、面会することはなかったのだそうだ。
チャイコフスキー交響曲第6番『悲愴』を初演したあと、1週間後に生水を飲んだことが原因でコレラにかかり、突然死んでしまった。現在の研究では、生水のコレラは事実ではなく、高い名声を持っていた彼の同性愛ががバレて、皇帝に死を賜(たまわ)り、つまり届けられた毒杯をあおって死んだというのが本当らしい。
なにもかもが謎につつまれ、派手でポピュラーで、しかも人の心をツーンとうつ、無数の名作を残していった大作曲家だった。

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岩城宏之の句
「春浅し まだまだヨハン シュトラウス

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