じじぃの「人の死にざま_608_山田・耕」

山田耕筰 - あのひと検索 SPYSEE
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待ちぼうけ - Mayuko Karasawa (Machibouke - 唐澤まゆこ) 動画 YouTube
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童謡 ペチカ 動画 YouTube
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この道 北原白秋 作詞 山田耕筰 作曲 動画 YouTube
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プロジェクトJAPAN 「日本の音楽界の発展に貢献した 山田 耕筰」 動画 NHK
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d-score 楽譜 - 山田耕筰
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山田耕筰 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
山田耕筰は、日本の作曲家、指揮者。
日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークのカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団レニングラードフィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある。軍歌の作曲も多く手がけている。
【生涯】
東京市本郷(現在の東京都文京区)の医師でキリスト教伝道者の父の下に生まれる。1899年、13歳のとき、姉を頼り岡山の養忠学校に入学。義兄のエドワード・ガントレット西洋音楽の手ほどきをうける。14歳のとき、関西学院中学部に転校。同本科中退を経て1904年、東京音楽学校予科入学、1908年、東京音楽学校(後の東京藝術大学)声楽科を卒業。
1920年大正9年)12月には帝国劇場においてリヒャルト・ワーグナーの「タンホイザー」の一部などを日本初演1924年大正13年)には近衛秀麿と共にハルビンのオーケストラ楽員と日本人楽員を交えたオーケストラの演奏会「日露交歓交響管弦楽演奏会」を主宰、これを母体に近衛と日本交響楽協会を設立。これは現在のNHK交響楽団の前身であるが、不明朗経理を理由に内紛が勃発。黒柳徹子の父・黒柳守綱ら4名を残し大部分の楽員は近衛と行動をともにしたため、山田派は崩壊した。弟子には内田元らがいる。 1921年文化学院音楽科主任となる。
終戦後、自身の戦時中の行動に関して、東京新聞で音楽評論家・山根銀二との間に戦犯論争が勃発。論争が収まった頃の1948年(昭和23年)に脳溢血で倒れ、以後体が不自由となる。1950年(昭和25年)、日本指揮者協会会長に就任し、また放送文化賞を受賞。1956年(昭和31年)、文化勲章を受章。離婚・再婚を機に戸籍上の名前も「耕筰」と改める。
1965年(昭和40年)11月初旬、耕筰は聖路加国際病院に入院していたが、家族が東京都世田谷区成城5丁目に広壮な洋館風の邸宅を借りる。同年12月4日、耕筰は成城の自宅に退院してくる。12月29日、自宅2階の南向き10畳間で耕筰は心筋梗塞により死去。
【代表的な作品】
北原白秋と共同して数多くの国民的歌謡、校歌等を創作した。
歌曲
・『野薔薇』(作詞:三木露風
・『唄』(作詞:三木露風
・『からたちの花』(作詞:北原白秋
・『この道』(作詞:北原白秋
童謡
・『赤とんぼ』(作詞:三木露風
・『兎のダンス』(作詞:野口雨情)
・『お山の大将』(作詞:西條八十
・『砂山』(作詞:北原白秋
・『ペチカ』(作詞:北原白秋
・『待ちぼうけ』(作詞:北原白秋
オペラ
・『あやめ』
・『黒船』(初演当初は『夜明け』)
交響曲交響詩
交響曲ヘ長調『かちどきと平和』

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
山田耕筰(やまだこうさく) (1886-1965) 80歳で死亡。 (一部抜粋しています)
日本近代音楽草創期の最大の指導者であり、一方北原白秋などと組んで「待ちぼうけ」「ペチカ」「砂山」「からたちの花」などの名曲で大衆にも知られた山田耕筰は、昭和22年1月、61歳のとき脳卒中のため左半身麻痺をきたし、それ以後もときどき脳虚血発作を起しながら、作曲活動をつづけた。
昭和38年、77歳のとき彼は「墓無用論」と題し、次のような随筆をかいている。
「人間は誕生のウブ湯を使うときは素っ裸だから、死ぬ時も、一物もまとわぬ清浄な姿で墓に入れぬか。死の当夜ぐらいは、親しい者達が寄り合って、静かに故人をしのぶ話をして酒を酌むのもいいが、その翌朝は焼き場へ、その骨と灰は、庭のすみにでもまくという程度の葬式はむりかしら。そうすると香典を包む必要もないし、寒い葬式でカゼをひいて死ぬこともなくなる」
翌年の8月末から高熱がつづき、肺炎と診断されて聖路加病院に入院した。脱水症状が甚だしいので、医者ができるだけ水分を摂取することをすすめると、水などそうガブガブ飲めないがビールなら飲むといって、ビールを飲んだ。
そのうち脳軟化が進み、嚥下(えんか)能力が衰えて食物をとるとすぐむせるので、鼻孔から管で栄養を補給した。言語も不自由となり、そのため彼はカンシャクを起こして、しばしば異常な行為をした。
入院1年をすぎたころから、耕筰はしきりにゼスチュアをもって退院希望をのべるので、昭和40年11月27日、鼻腔にチューブをさしこんだまま寝台車で成城の宏壮な自邸に帰った。
彼は裸で生まれたのだから裸で死にたいといったけれど、近代では人間は、管(くだ)でつながれて生まれ管でつながれて死ぬのである。
一月後の12月28日夜半、彼は腰痛を訴え、看病する輝子夫人にむかってかっと眼をむいているので、夫人が「眼をつぶってお休みになったほうがいいですよ」というと、眼をとじた。この夫人にむかってかっと眼をむいていたのが、単なる肉体反応か、それとも感情の表現であったかが問題である。
翌朝そのまま死んでいるのが発見された。心筋梗塞を併発したのであった。
彼は、熱心なクリスチャンの母に育てられ、少年期も牧師の家に寄宿してミッション・スクールにかようという雰囲気に育ちながら、青年期以後は恋の狂詩曲を地でゆく生涯をすごし、また、かって上記のような心境を吐露した随筆を書いたが、葬式は築地本願寺で盛大に行われた。
金田一春彦の『十五夜お月さん』によれば、葬式には「5000人の会葬者があり、近衛秀麿(このえひでまろ)の指揮により、耕筰の作品が次々に演奏された。しかし、山田の場合、生前の放縦な生活がたたって、彼の息子も娘も葬式には来なかった」

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