じじぃの「人の死にざま_781_木村・荘」

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近代日本性豪伝
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木村荘平 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
木村 荘平は、山城国(現在の京都府)出身の実業家、政治家である。いろは合名会社社長、東京家畜市場会社(屠場)理事、東京諸畜売肉商(肉卸問屋)組合頭取、東京博善株式会社社長、東京本芝浦鉱泉株式会社(温泉つき割烹旅館)社長、日本麦酒醸造会社(ヱビスビール)社長、東京商業会議所議員、日本商家同志会顧問、芝区議会議員、東京市会議員、東京府議会議員。当時日本最大の牛鍋チェーン店「いろは」を経営し、「いろは大王」と謳われた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
木村荘平(きむらしょうへい) (1841-1906) 65歳で死亡。
明治時代、東京に牛鍋店「いろは」48店を全て妾に経営させ――というのは伝説だが、20数店をそれぞれ妾にやらせたのは事実で、みずから「いろは大王」と称した木村荘平は、明治39年4月、激しい歯痛のため帝大病院に入院し、顎ガンと診断され、手術数日後、4月27日午後1時半死亡した。
彼は牛鍋店チェーンのみならず、日本ではじめて赤煉瓦(れんが)の煙突に煉瓦の窯(かま)、レールをしいてそこに棺を滑りこませて焼くという、その宣伝文句によれば「壮大なる規模と近代的設備」を誇る火葬場を作ったが、あまりに料金が高かったので利用者がなく、彼自身がその第1号(第2号という説もあるが)になった。
荘平には認知しただけでも30人の子供があり、死んだ年にも妾たちの中から2人子供が生まれたほどであった。
その子供たちにとって、かれは強烈な印象を残す父でもあった。
その一人荘太は書く。
「……ある晩、私も襲われるような悪夢のなかで、父の姿を見て脅(おびや)かされたことがあった。あの片顎を切りとられた恐ろしい包帯姿で、父は私の前に姿を現して、ものもいわずに、両手で私の右手をとってぐんぐん引っ張って行こうとしたのだ。恐怖に私は身がすくんで、踏ん張る足に力を入れて引っ張られまいとした。それでも父の引く力が強くって、私はもがきながら父のいるなんだか暗いほうへ引き寄せられて行った」(『魔の宴』)
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荘平はまったく死を予期しておらず、かつまた入院後は口をきけない状態にあったため、自分の死後のチェーンのやり方については何の遺言も残さなかったので、数年にして「いろは」は崩壊した。

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