じじぃの「人の死にざま_778_アショーカ王」

アショーカ王 - あのひと検索 SPYSEE
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アショカ王 NHK高校講座 1  【おぉたむ すねィく教育部門】 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=1zVJxl3m8TI
Samrat Ashoka the Great Indian king 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=DTuNKCU0oLE&feature=related
インド国旗 画像
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アショーカ王 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
アショーカ(在位:紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)は、マウリヤ朝の第3代の王である。漢訳音写では阿育王と書かれる。インド亜大陸をほぼ統一した。釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れたという伝説もあるアショーカ王は、古代インドにあって仏教を守護した大王として知られる。アショカとも表記される。
【法(ダルマ)の政治】
治世10年頃から釈迦縁の地を回り、また自らの命じた「法の政治」を宣伝し、またそれが実行されているのかどうかを確認してまわる「法の巡幸」を開始した。治世11年にはブッダガヤの菩提樹を詣でている。そして釈迦の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して新たに建てた8万4千の塔に分納したと伝えられる。この数字自体は誇張であるが、インドの仏塔の中にアショーカ時代に起源を持つものが数多く存在するのは事実である。
アショーカ王は、第三回仏典結集を行なった。また法の宣布を目的とした新たな役職として法大官(ダルマ・マハーマトラ Dharma mahamatra)を設定し、仏教の教えを広めるためにヘレニズム諸国やスリランカ使節を派遣した。その他、マイルストーンアショーカ王によって設置された。
アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があり、また実際に治世末期の碑文などが発見されておらず、政治混乱が起こった事が推測される。原因については諸説あってはっきりしないが、宗教政策重視のために財政が悪化したという説や、軍事の軽視のために外敵の侵入に対応できなくなったなどの説が唱えられている。

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井沢元彦の英雄の世界史』 井沢元彦/著 廣済堂文庫 2008年発行
「大量殺戮者」から「熱心な仏教徒」へ アショーカ王 (一部抜粋しています)
英雄とは戦争が巧みな人間のことだ。現代なら必ずしもそうとはいえないが、古代は必ずそうである。というのは、昔は国際間・民族間の紛争を解決する手段は、戦争しかなかったからである。
現代ですら人類は戦争を根絶することができない。今でも海の向こうではたびたび戦争が行われている。少なくとも古代においては(あるいはひょっとしたら現代においても)戦争は一種の「必要悪」であった。
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アショーカ王は初め暴君であったと伝えられている。他の兄弟との争いに勝ち王位を得た彼は、マウリヤ王朝第3代の王として積極的な領土拡張策をとり、戦争また戦争の末に小国分立状態にあった古代インドを、初めて統一した。紀元前260年頃のことだ。
しかし、この統一戦争には十数万人の犠牲者が出た。このことでアショーカ王は次第に武力による征服や、そもそも政治を武力の裏付けによって行うこと(これを武断政治という)に、深い疑問を抱くようになった。
だが、それならどんな形に政治を変えればいいのか?
武断政治というのは、極言すれば暴力団が街を「支配」しているのと変わらない。そうではなくて、何か多くの人々が心の拠り所とできるような「思想」を掲げ、それを共通の理念として行っていく政治のことを文治主義(政治)という。
まだ「民主主義」はない。当時のインドにおいて、そうした理念となり得るもの、それは仏教であった。アショーカ王は仏教の持つ慈悲と利他の精神をもって国を治めようと考えたのだ。
文治主義は、その骨組となる理念が、キリスト教イスラム教のような宗教であれ、民主主義や共産主義のような政治思想であれ、最高権力者もその信者でなければならない。つまり、これはアショーカ王自身も仏教の熱心な信者になったということである。「暴君」にして「大量殺戮者」から、「熱心な仏教徒」へ、そのきっかけはいったい何だったのか? 残念ながらわからない。後に王は仏教の聖者と讃えられさまざまな伝説に飾られることになる。
その中には、王が意に添わぬ僧を釜ゆでにしようとしたところ、沸騰する湯の中で僧は傷付きもせず、死にもしなかったので、驚き後悔した王は入信した、という話もある。
しかし、こんな「奇蹟」を語ると、かえってリアリティが損なわれる。おそらく、殺戮という罪に、何かのきっかけで目覚める瞬間があったのだろう。
王は、仏教の理想を政治の上で実現すると宣言し、不況のために各地に数多くの石塔を立てたという。この石塔(石柱)は高さ13メートルから7メートル、最上部に牛、獅子、象などの動物が刻まれ、側面に仏の教えが彫り込まれている。中央にある法輪(仏教の象徴)は、現在のインド共和国の国章にもなっている。国旗の中央に描かれているのがそれだ。
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いずれにせよ、王の信心は固かったことは間違いないだろう。ただし、問題は、この理想の「平和国家」は長く続かなかったことだ。「不殺生」も「平和」も理想であることは間違いない。だが、周囲の国々や民族はそうではない。結局、紀元前180年頃、マウリヤ朝は滅び、後に仏教も、インドからは駆逐された。

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