じじぃの「人の死にざま_1159_レオニダス(スパルタ王)」

レオニダス1世 - あのひと検索 SPYSEE
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Leonidas and Xerxes 動画 YouTube
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[予告編] 300(スリー ハンドレッド) ニコニコ動画
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ギリシア
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レオニダス1世 ウィキペディアWikipedia)より
レオニダス1世(Leonidas I、 ? - 紀元前480年、在位:紀元前489年 - 紀元前480年)はアギス朝のスパルタ王である。
レオニダス1世はアナクサンドリデスの子であり、先王クレオメネス1世の異母弟である。レオニダスは三男であり、本来王位にはつきにくかったが、二人の兄クレオメネス1世とドリエウスの両方が死んだため、王位が回ってきた。彼はクレオメネスの一人娘ゴルゴーと結婚して、王位を継いだ。
ペルシア戦争を控えてデルポイに神託を聞いたところ「王が死ぬか、国が滅びるか」ということだった。そこでレオニダスは覚悟を決め、他の都市から来た兵士を帰し、わずかな軍でペルシアの大軍に立ち向かっていったのだとヘロドトスは書いている。さらにこの時がちょうどオリンピアでオリンピックを開催する年であったことも重なり、十分な軍を送ることができず、レオニダスは親衛隊300人のみを率いて出陣した。紀元前480年のテルモピレーの戦いに赴く時、死を覚悟した彼は出陣の直前に妻に「よき夫と結婚し、よき子供を生め」と言い残したという。

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『教科書では学べない 世界史のディープな人々』 鶴岡聡/著 中経出版 2012年発行
スパルタ王レオニダスの気骨 「自分の死は避けられない」 (一部抜粋しています)
エジプトや中東各地をめぐり歩き、各地の風俗や政治情勢、産業などをつぶさに実見したヘロドトスはまた、同時代人たるペリクレスソフォクレスとも親しく交わり、彼らを通じて政治や芸術の知見を養って、あの名著『歴史』を生み出した。その『歴史』の後半3巻にペルシャ戦争の経緯が記述されている。中でも死を覚悟したスパルタ王レオニダスが妃に「俺はこの戦いで確実に死ぬ。おまえは俺にはばかることなくいい相手を見つけ、たくさん子どもを生むように」と言ったという件(くだり)は、レオニダスの人間臭さが涙をさそう。
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前20世紀以降に南下してきたイオニア人といわれる人々はアテネを、前12世紀以降に南下してきたドーリア人といわれる人々はスパルタなどを建設し定住していき、次第にギリシャ世界が形成されていった。しかも各ポリスは恒常的な戦争状態にあり、小競り合いを続けていた。しかし、バルバロイといわれる異民族が攻めてくれば、各ポリスは盟約を結んでギリシャ防衛のために全力を傾けた。
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スパルタはペロポネソス半島の山間にあるポリスである。ここでは市民のほぼ10倍にのぼる奴隷たちが生産労働に従事して市民の生活を支えていた。
スパルタ人は厳しい姿勢で奴隷に臨み、奴隷反乱を抑止するため男子市民には厳格な兵役義務が課られた。世に「スパルタ教育」という過酷な教育はこれをさしている。スパルタはまた、実質は民主制であったが国王に統治されていた。当時王位に就いていたのがレオニダス1世であった。
レオニダスの生年はわからないが、アギス朝のアナクサンドリデス2世の3男として生まれた。しかし、兄2人が亡くなったので、長男の1人娘と結婚して王位に就いた。
戦いに先立ちデルフォイの信託を聞いたところ、「汝らの誉れ高き大いなる町はペルセウスの裔(すえ)なる子(ペルシャ人)らに滅ばされるるか、さもなくばヘラクレスの血統に連なる王の死をば、ラケダイモン(スパルタ)の国土は悼むことになろうぞ」ということだった。
レオニダスは即座に死を決意し、ほかのポリスから来た援軍を返した。しかもこの年は4年に1度のオリンピアの祭典と重なっていたため各ポリスも援軍をさく余裕はなかった。覚悟を決めたレオニダスはスパルタ軍の精鋭300人とテーバイ軍などを率いて出陣した。
出陣に先立ち彼は妻に、「神託では自分の死は避けられないから、よい夫を見つけて再婚し子どもをたくさんもうけるように」と言い残した。まさに退路を断つ覚悟を決めたのだった。
ギリシャ連合軍の軍議はペルシャ艦隊をアルテミシオン沖で、地上軍をテルモピレーの隘路(あいろ)に配置する決定を下した。隘路だったら少数の兵力でも大軍を防ぐことができたからである。そして、この隘路防衛を一手に引き受けたのがレオニダスだった。
戦いがはじまると20万というペルシャ軍の多さに圧倒され戦線は混乱した。クセルクセスもギリシャ軍の動揺を察知し、ギリシャ軍は戦わずして撤退するであろうと考え4日間静観したが、ギリシャに撤退の動きは見られず、とうとう5日目に総攻撃を命じた。
テルモピレーは背後から険しい山が迫り眼前は海という隘路で、最も狭いところで道幅は15m程度しかなく、ペルシャは主力である騎兵部隊を展開することができなかった。このため苦戦を強いられ2万の死傷者を出した。戦闘2日目の夕方、クセルクセスはヒュダルネス率いる虎の子の不死隊を投入したが、街道に沿って構築された城壁を利用してギリシャ軍は果敢に抵抗して撃退した。
ペルシャの斥候(せっこう)は追い詰められているのもかかわらず、スパルタ軍は髪に櫛を当てる余裕をみせているという思いがけない報告をもたらした。クセルクセスはその意味を察しかねていると、ギリシャ人顧問の「生死を賭けて事を行わんとする場合には、頭髪の手入れをするのが彼らの習わしとなっている」という言葉を聞き、焦りを募らせていた。
そのとき、エピアルテスなるギリシャ人がレオニダスの命運に関わる注進におよんだ。山中を抜けて海岸線を迂回する間道があるというのだ。これを利用すればスパルタ軍の背後を突ける。喜び勇んだ不死隊(アタナイト)は夜間行軍でこの間道を突破した。
これを知ったレオニダスは撤退を主張する各軍を返し、徹底抗戦を主張する1400名の兵とともにテルモピレーにとどまる決意をした。
午前中に迂回部隊はスパルタ軍の背後のアルペノイに到達し激戦がはじまった。スパルタ兵は槍が折れると剣で、剣が折れると素手で戦ったが、激戦の最中ついにレオニダスも力尽きた。
「旅人よ、ラケダイモン人に伝えてよ。ここに彼らが掟のままに、果てし我らの眠りてあると」――討ち死にした者たちの墓碑にはこう記してあったとヘロドトスは記録している。しかし、レオニダスとスパルタ軍の犠牲があったからこそ、アテナイの海軍は時間を稼ぎ、主力艦隊を温存させてサラミス海戦に勝利することができた。レオニダスにギリシャ世界は救われたのだ。

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