じじぃの「人の生きざま_99_坂田・多」

坂田多賀夫 - あのひと検索 SPYSEE
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怪奇現象2 ストローが曲がる 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=EZqnQ8vLL2w
ピンクのストローを挿したコップ入り飲料

億万のココロ 飲み物で億万 坂田多賀夫氏
京都府八幡市
昭和3年(1928)、鳥取県生まれ
昔から手先が器用で、工業専門学校の高校2年生で自動洗濯板製造機を発明!
当時25万円(昭和23年の時)で特許ごとある会社に機械を売却!
(今の価値で5000万円!)
そのお金で大阪の守口市に一戸建ての家を購入、残りのお金で会社設立。
Yシャツのプレス機や自動ネーム織り機など次々に発明!
マスコミにも取り上げられ浪速のエジソンとも言われ若手大発明家と騒がれる。
http://www.ntv.co.jp/okuman/02_backnumber/041211/06.html
ビートたけしの! こんなはずでは!! 本当は日本が世界初!? (秘)発明SP 2003/10/25 テレビ朝日
坂田多賀夫(「曲がるストロー」発明者)

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コロンブスのゆで卵』 TBS「コロンブスのゆで卵」取材班 勁文社 1997年発行
ストローを曲げた折り鶴の知恵 淀専のエジソンの発明人生 (一部抜粋しています)
曲がるストローはとくに便利だ。恋人同士は見つめ合ったまま飲むことができる。病人はベッドに横になったまま飲める。角度は固定できるし、丈夫で壊れる心配もない。いいことだらけである。見かけは単純だが、実に帰納的なのである。
なぜ、ストローに曲がる機能を与えたのか、あるいは曲がったまま元に戻ろうとしないのか。なぜここまで機能的になったのか。そこには曲がるストローを考案した男の英知と、折り鶴の知恵が隠されていた。京都府八幡市。大阪と京都の中ほどにあるこの町に、湧き出る清水を神として奉る石清水八幡宮がある。かの世界の発明王トーマス・エジソンが白熱灯のフィラメントに使用した竹は、この神社の杜にはえていたものだった。神社の境内には、ここの竹が発明に貢献したことを記念してエジソン記念碑が建てられている。
曲がるストローを考案し、「淀専のエジソン」と呼ばれた男は、その発明王エジソンゆかりの地に住み、いまでも発明人生を歩み続けているのである。
淀専のエジソン、深夜公衆トイレに忍び込む
昭和21年、坂田多賀夫は大阪淀川工業専門学校(現・大阪府立大学)の3年制だった。戦後の物不足はいうまでもなく人々の生活を苦しめ、家財道具など満族にそろっている家は数えるほどしか見あたらない。そんな時代に彼は発明家を目指すことのなる。
電気製品などはほとんど皆無。洗濯は洗濯板が当たり前の時代である。その洗濯板ですら、大工が手で彫るという手作業に頼り、満足に行き渡らない有様である。そこで坂田は考えた。「洗濯板を作る機械を作ればいい」と。
坂田が自動洗濯板製造機を作ると、あっという間に評判を呼んだ。そうなると思いもよらないことに、機械を買い取るどころか、権利そのものを売ってくれという人物まで現れた。その金額、実に当時の25万円。いまに換算すれば10億円は下らない金額である。思いがけないこの日の出来事がきっかけで、坂田の発明人生がスタートすることになった。
引き続き在学中に作り出したのは「割バシ製造機」である。1日に1万善を作るこの機械は、手作業の数十倍の量を生産する優れた能力があった。廃材を利用する点も評価されたこの機械は、学生初の発明委考案展覧会1等賞を受賞することになる。
この受賞で坂田は「淀専のエジソン」と呼ばれるようになったのである。
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そんなある日、思いもかけない依頼が舞い込んだ。女性用の生理用品の開発である。
戦後強くなったのは女と靴下だと言われる時代にはなっていたが、性に関してはまだまだ閉鎖的な時代。男が生理用品についておいそれと聞ける土壌ではない。頼れるのは身内しかない。坂田は妻に生理のとき、何をどのように使っているのか、思い切って尋ねることにした。しかし、妻でさえ口を開いてはくれなかったのである。坂田は困り果てた。
「こうなったら手段は選べない」
生理用品の実態を調べるために、坂田は夜中に公衆便所へと出かけた。そして、個室に捨てられた生理用品を詳細に調査した。坂田が個室に入っている間に女性が次々と公衆便所を訪れ、個室に入った坂田は出るにでられず、2時間も缶詰になったこともある。しかし、苦労して調査したかいがあって、日本初の生理パットの連続製造装置を開発することができたのである。その後、質がいいことに加え、大量生産で低価格が実現。生理パットは一躍ヒット商品となるのである。
この苦しみのなかから生まれた機械の成功が、坂田をさらに飛躍させる方向へと導いた。衛生材料の視察のために欧米に行く機会を得たのである。人の生活や仕事ぶりを見て発明のヒントを得る坂田にとっては格好のチャンスだったというわけだ。
渡航先のある病院で、坂田はある光景に目を止めた。寝たきりの病人がコップの水をゴムのチューブで飲もうとしていた姿である。坂田は思った。
「なるほど、ストローでは体をおこさなければいかないのか。でも、もしストローが曲がったら、起き上らなくてもいいんじゃないか。ストローが曲がったら便利だろうな」
曲がるストローは、この瞬間から坂田によって作られる運命になったのである。