俊寛 - あのひと検索 SPYSEE
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平家物語 俊寛 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=QOUrv4P6FzQ
歌舞伎よもやま話・俊寛 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=v5FSoz0h3XM
いざ!島へ〜「俊寛」悲劇の伝説〜
http://4travel.jp/domestic/area/kyushu/kagoshima/rito/travelogue/10020606/
俊寛 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
俊寛は平安時代後期の真言宗の僧。村上源氏の出身で、木寺(仁和寺院家)の法印寛雅の子。別の呼び名として、僧都と呼ばれる位の名を付け俊寛僧都などとも呼ばれる。
【流刑地について】
俊寛が流された鬼界ヶ島の場所については、鹿児島県大島郡喜界町の喜界島、鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島、長崎県長崎市の伊王島など諸説ありはっきりしていない。また、ひそかに島を脱出したという説も多く、鹿児島県阿久根市や出水市、佐賀県佐賀市などにも俊寛に関する言い伝えが残っている。
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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
俊寛(しゅんかん) (1142-1179) 37歳で死亡。 (一部抜粋しています)
法勝寺執行、俊寛僧都は、治承元年6月、藤原成親、平康頼、僧西光らと、京東山鹿ヶ谷の山荘で平家討滅の陰謀を相談したが、事発覚して捕えられ、成親は出家したが西光は殺され、俊寛は康頼、成親の子成経とともに3人、薩摩の鬼界島(きかいがしま)に流された。
いまの鹿児島県硫黄島にあたるというが、島人といえば「色黒うして牛の如し、身にはしきりに毛生(お)いつつ、云詞(いうことば)も聞きしらず」というありさまで、「島のなかにはたかき山あり、とこしなえに火燃ゆ。……いかずちつねに鳴りあがり、鳴りくだり、麓には雨しげし、一日片時(へんじ)、人の命たえてあるべき様もなし」(『平家物語』)という絶海の孤島であった。
翌治承2年、平重盛の嘆願によって、康頼と成経は赦免されることになったが、清盛が特に目をかけてひきたててやったつもりなのに、飼犬に手をかまれた思いのする俊寛だけは除かれた。
・
翌治承3年、俊寛の使っていた有王という童(わらべ)が、主の安否を気づかって、3月、鬼界島に渡って、「髪は空さまへ生いあがり、よろずの藻くずとり付いて、おどろをいただいたるが如し、つぎ目あらわれて皮ゆたい。身に着たる物は絹布の別(わき)も見えず」(『平家物語』)というありさまの俊寛とめぐりあう。
主従再会のよろこびもしばし、俊寛は、都で妻も子も歎きのあまり世を去ったときくと、以後食を絶ち、有王が島に渡って23日目に衰弱して死んだ。
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俊寛 Google 検索
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