じじぃの「人の死にざま_772_俊寛」

俊寛 - あのひと検索 SPYSEE
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平家物語 俊寛 動画 YouTube
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歌舞伎よもやま話・俊寛 動画 YouTube
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いざ!島へ〜「俊寛」悲劇の伝説〜
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俊寛 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
俊寛平安時代後期の真言宗の僧。村上源氏の出身で、木寺(仁和寺院家)の法印寛雅の子。別の呼び名として、僧都と呼ばれる位の名を付け俊寛僧都などとも呼ばれる。
流刑地について】
俊寛が流された鬼界ヶ島の場所については、鹿児島県大島郡喜界町の喜界島、鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島長崎県長崎市伊王島など諸説ありはっきりしていない。また、ひそかに島を脱出したという説も多く、鹿児島県阿久根市や出水市、佐賀県佐賀市などにも俊寛に関する言い伝えが残っている。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
俊寛(しゅんかん) (1142-1179) 37歳で死亡。 (一部抜粋しています)
法勝寺執行、俊寛僧都は、治承元年6月、藤原成親、平康頼、僧西光らと、京東山鹿ヶ谷の山荘で平家討滅の陰謀を相談したが、事発覚して捕えられ、成親は出家したが西光は殺され、俊寛は康頼、成親の子成経とともに3人、薩摩の鬼界島(きかいがしま)に流された。
いまの鹿児島県硫黄島にあたるというが、島人といえば「色黒うして牛の如し、身にはしきりに毛生(お)いつつ、云詞(いうことば)も聞きしらず」というありさまで、「島のなかにはたかき山あり、とこしなえに火燃ゆ。……いかずちつねに鳴りあがり、鳴りくだり、麓には雨しげし、一日片時(へんじ)、人の命たえてあるべき様もなし」(『平家物語』)という絶海の孤島であった。
翌治承2年、平重盛の嘆願によって、康頼と成経は赦免されることになったが、清盛が特に目をかけてひきたててやったつもりなのに、飼犬に手をかまれた思いのする俊寛だけは除かれた。
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翌治承3年、俊寛の使っていた有王という童(わらべ)が、主の安否を気づかって、3月、鬼界島に渡って、「髪は空さまへ生いあがり、よろずの藻くずとり付いて、おどろをいただいたるが如し、つぎ目あらわれて皮ゆたい。身に着たる物は絹布の別(わき)も見えず」(『平家物語』)というありさまの俊寛とめぐりあう。
主従再会のよろこびもしばし、俊寛は、都で妻も子も歎きのあまり世を去ったときくと、以後食を絶ち、有王が島に渡って23日目に衰弱して死んだ。

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俊寛 Google 検索
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