じじぃの「人の死にざま_739_船橋・聖」

花の生涯」より オープニングテーマ〜井伊直弼と村山たかのテーマ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=_CWb-hRXgxY&feature=related
花の生涯 | 作品紹介(八重子十種) | 劇団新派 公式サイト
http://www.shochiku.co.jp/shinpa/works/yaeko10/04.html
NHKアーカイブス「シリーズ わたしが選ぶあの番組(3)寺島実郎さん」 2011年10月30日
【出演】日本総合研究所理事長 寺島実郎 【司会】桜井洋子
各界で活躍する方々がNHKアーカイブスの中から選んだ番組を語るシリーズの3回目は、日本総合研究所理事長の寺島実郎さん(64)。
国際的な視野で政治・経済を語る論客として活躍する寺島さんが選んだ番組は、1963年放送の大河ドラマ花の生涯」。江戸末期に開国を先導した幕府の大老井伊直弼の波乱に満ちた生涯を描いた番組で、NHKが制作した大河ドラマの第1作目である。
放送当時、札幌の高校に入学したばかりの寺島さんは、この番組を見たとき、後の人生に大きな影響を与えるほどの衝撃を受けたという。それまで寺島さんにとって井伊直弼は反対勢力を厳しく弾圧した「安政の大獄」の黒幕という“悪役”であった。だが、このドラマでは、光り輝く“主役”であり、学問を愛し、激動の時代の流れと格闘し苦悩する生身の人間として描かれていたのである。歴史を考える上での“もう一つのアングル”が、そこにはあった。
この「ある一面だけで歴史を見るのではなく、常に相対化したものの見方をすべき」ということが、その後の自身の考え方の指針になったという寺島さんに、番組の魅力を存分に語ってもらうとともに、政治や経済、国際社会について考える時に大切にしてきた寺島さんの歴史観を聞く。
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2011/111030.html
船橋聖一 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
舟橋聖一は、日本の小説家。東京生れ。旧制水戸高等学校を経て東京帝国大学文学部卒。弟は脚本家の舟橋和郎
大学在学中に『朱門』の同人になり、また、河原崎長十郎村山知義らと共に劇団「心座」の旗揚げに尽力する。1926年(大正15年)10月、『新潮』に戯曲「白い腕」を発表し文壇入りする。その後、明治大学教授として教鞭をとるかたわら、雑誌『行動』に参加して「ダイヴィング」を発表、行動主義、能動精神運動の中心となり、行動的ヒューマニズムによる現実改革者としての地位を確立した。多くの戯曲を書くが、1938年(昭和13年)に、『文学界』に発表した小説「木石」で認められる。
戦後は『雪夫人絵図』などの風俗小説で流行作家となった。一方で自らが中心となって作家連合の「伽羅(キアラ)の会」を結成し、『風景』を創刊。また、日本文芸家協会理事に選出され、著作権問題の解決に尽力した。代表作に『悉皆屋康吉』、『花の生涯』、『ある女の遠景』、『好きな女の胸飾り』、『お市御寮人』などがある。
また、幼い頃からの相撲好きでも知られ、横綱審議委員会の委員を長く務め、最後には委員長に任じられていた。
花の生涯 (NHK大河ドラマ)】
原作は舟橋聖一が1952年 - 1953年に毎日新聞紙上で連載していた歴史小説花の生涯』。幕末の大老井伊直弼の生涯を描いた作品。視聴率は全話平均20.2%、最高で32.3%を記録した。松竹の専属俳優だった佐田啓二が初めてテレビドラマに出演した作品である。現在と異なり、基本の放送時間は日曜日の午後8時45分〜午後9時30分であった、
1961年、NHKの芸能局長に就任した長沢泰治は、当時、技術的にも稚拙で黎明期にあったテレビジョン放送をして映画を凌駕すべきものにするべく、当時、30分枠が主流だったテレビドラマに映画並のクオリティーと大衆の支持を得るべく、大作ドラマの制作を志向した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
船橋聖一(ふなばしせいいち) (1904-1976) 72歳で死亡 (一部抜粋しています)
「『花の生涯』では丹羽文雄氏の『蛇と鳩』と、野間賞を争ったが、ついに僅かの差で敗れ、丹羽さんに先を越された。このときはよほどくやしかったと見え、それから、丹羽さんの小説を一寸(ちょっと)でも話題にすると、機嫌が悪くなった。丹羽文学は禁句であった」
と、弟の船橋和郎は書く。
「昭和30年代の終わりごろから、毎年11月が近づくと、周期的に兄の神経がいらだってくる徴候が見えた。これは芸術院会員の発表が、毎年11月ごろにあり、そこに自分の名前がなく、ライバルの名や、ときには後輩の名前が出ていることが、ここ、2、3年続いたからである」
昭和40年、船橋聖一、数え年62歳。
「還暦の翌年の10月に、兄は眼疾を患い、そのために、心たのしまぬ日々を送るようになった。
そのころから彼は一段と癇癪持ちになった。
彼はなにかにつけて、完全主義をふりかざした。それは極端なほどのきびしさをもって、彼に接する人々に向けられた。家族や使用人ばかりでなく、彼の病気を診察に来る医師たちに対してまでも。
彼はめったに笑わなくなった。彼の屋敷には常に彼の不機嫌からくる、陰気さが漂った。(中略)
彼は失明と闘いながら、ますます完全主義者になっていったのである。(中略)
      ・
勲章好きの聖一は、昭和50年秋、やっと文化功労者の栄誉を受けることのなった。が、弟たちがお祝いの品をとどけなかったことのついて、彼はまた大癇癪を起し、暮れに和郎たちを呼びつけて、「弟妹たち合わせて百万円持って来い」と怒号した。
そのあと彼は心臓喘息(ぜんそく)の発作を起こした。
年が明けて弟妹たちが鳩首(きゅうしゅ)協議しているうち、1月13日の早朝、聖一はまた大発作を起こして、意識不明のまま救急車で日本医大附属病院に運びこまれた。
そして、懸命の心臓マッサージもむなしく、午後零時58分、急性心筋梗塞によって、死亡した。