じじぃの「人の死にざま_737_H・ゴーゴリ」

ニコライ・ゴーゴリ - あのひと検索 SPYSEE
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ニコライ・ゴーゴリ、「外套(がいとう)」 ミネルバのフクロウ
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ニコライ・ゴーゴリ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ(1809年4月1日 - 1852年3月4日)は、ウクライナ生まれのロシア帝国の小説家、劇作家。ウクライナ人。戸籍上の姓は、ホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ゴーゴリ=ヤノフスキー)である。『ディカーニカ近郷夜話』、『ミルゴロド』、『検察官』、『外套』、『死せる魂』などの作品で知られる。
【外套】
「外套」(がいとう)は、ニコライ・ゴーゴリの短編小説。1842年出版。
本作は近代ロシア文学の先駆けとなり、多くのロシア作家に影響を与えた。ドストエフスキーは、「我々は皆ゴーゴリの『外套』から生まれ出でたのだ」と語ったと言われる。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ゴーゴリ (1809-1852) 43歳で死亡 (一部抜粋しています)
小ロシアの田舎の小地主に家に生まれたゴーゴリは、首都ペテルブルクに出て貧しい小官吏をしながら、26歳のとき『鼻』以下一連の短編を書き、ドストエフスキーから「笑いの悪魔」と評された。
しかし彼は生来虚弱な体質で、24歳のときに早くも自分の老衰を嘆(なげ)いたくらいであった。そして肉体は徐々に健康になったが、こんどは脅迫観念を伴う精神的な発作にるる苦しむようになった。彼みずからいう。「ほとんど過度とも思われる健康状態のさなかに、ふとわけのわからない昂奮に襲われる。その後で、雲ひとつない真昼に怖ろしい呼声を聞くように、ふいに恐怖がやって来て、そして説明の出来ない病的な憂鬱に沈んでしまう」
外見の彼は、小柄で、胴体に比べて足が短く、体をかがめるような歩き方にもったいぶった感じああり、また可笑しみがあった。顔色は蒼ざめて、小さな鬚(ひげ)をはやし、話すときまっすぐに相手を見ないで、横眼をしたり、眼を細めたりしたが、ときどきちらっと相手を見る時、その眼にはつき刺すような感じがあった。
27歳のとき、戯曲『検察官』を書き、上演されたが、自分の書いた醜悪な人間像が具体的に舞台に現わされたのを見て、彼自身がショックを受け、賛否こもごもの評判にも神経を痛めて、そのすぐあとからロシアを逃げ出して、以後12年間、パリやローマで暮らした。
傑作『外套』を書き、1835年、30歳のとき、大作『死せる魂』にとりかかったが、途中で自分の文学的才能を疑うようになり、その上、自分の作品そのものが有害なもののように思われて来た。1849年、やっとロシアに帰国した彼は、友人に手紙を書いている。「私の想像力はまったく衰えた。原稿一枚どころか、一行がやっとだ。人は40歳でこんなに老人になるものだろうか」
彼の苦しみには、かれが小説を書くことを有害とする、単純平凡にして愚昧(ぐまい)狂的な老教父コンスタンチイノフスキーの影響もあった。
そかし彼は、骨を刻むような思いで、とにかく『死せる魂』第二部を書きつづけていった。
帰国以来、ロシアのあちこちを彷徨していたゴーゴリは、最後はモスクワの友人アレクセイ・トルストイ(万人に知られているレフ・トルストイではない)の家に寄留したが、1852年2月初旬のある夜、跪(ひざまず)いて熱心に祈ったあと、蝋燭(ろうそく)を手にして十字を切り、自分の『死せる魂』第二部の原稿を暖炉に投げ込み、その蝋燭で火をつけた。召使いはその重大さに驚き、泣きながらとめたが、ゴーゴリは「お前とは関係ない。お前も神に祈れ」といって十字を切って召使いに接吻した。そして、長椅子につっ伏して、声をあげて泣き出した。
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この日から彼は一切の飲食を拒絶した。終日寝巻を着て、足を机の上にのせて坐ったり、ほとんど人を近づけなかった。
牧師が来て、食事や薬を勧めてもゴーゴリはとり合わず、ついに医者が呼ばれて、強制的に頭部に氷嚢をつけたまま風呂にいれたり、はては手足をおさえつけて蛭(ひる)を吸いつかせたり、芥子泥(からしどろ)をぬりつけたりした。
2月16日の夜10時過ぎに衰弱し、狂乱状態になったゴーゴリは、「梯子を! 梯子を!」と、意味不明の言葉をさけんだ。それが彼の最後の言葉となった。あくる日の朝8時ごろ、彼は絶命した。
ゴーゴリは生涯独身で、おそらく女性を知らなかったのではないかと推定されている。

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