じじぃの「人の死にざま_655_ツルゲーネフ」

イワン・ツルゲーネフ - あのひと検索 SPYSEE
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名作を読む: イワン・ツルゲーネフ「はつ恋」を読む
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イワン・ツルゲーネフ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフは、19世紀ロシアの代表的な小説家の一人。ロシア帝国の貴族。なお、以前は「ツルゲーネフ」と書かれることが多かったが、最近ではロシア語の発音に近い「トゥルゲーネフ」という表記が用いられるようになっている。
【概要】
ロシア中部オリョールの地主貴族の家庭の次男として生まれる。15歳でモスクワ大学教育学部に入学、1年後、ペテルブルク大学哲学部に転じる。1838年から1841年までベルリン大学で哲学や古典語を学ぶ。
1843年、叙事詩『パラーシャ』を発表。その年、夫と子のあるオペラ歌手、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドに一目惚れし、彼女を追ってパリに移り住んだ。それ以後、西欧とロシアを往復する生活が終生続いた。
1847年から雑誌に発表された『猟人日記』(1852年)で、貧しい農奴の生活を描き、農奴制を批判したことで逮捕・投獄される。この作品は農奴解放に大きな役割を果たした。
続く1856年の『ルージン』では、高い理想と教養をもちながらも現実に対しては無力ないわゆる「余計者」を描いた。その後も、政治社会的な問題を主題とした『貴族の巣』(1859年)、『その前夜』(1860年)、『処女地』(1877年)などを次々と発表し、社会論争を巻き起こした。理想主義的な父の世代と、唯物論的な子の世代の相克を描いた『父と子』(1862年)は、19世紀のロシア小説の最高傑作の一つに挙げられる。自伝的な作品として『アーシャ』(1858年)、『初恋』(1860年)なども残している。
長く住んだパリで、西欧の作家・芸術家たちとの幅広い交友関係を築き、西欧へのロシア文学の紹介に大きな役割を果たした。1883年、パリ郊外で歿し、ペテルブルクでは国葬が営まれた。
日本ではいち早く二葉亭四迷によって翻訳・紹介され、特に国木田独歩田山花袋らの自然主義に大きな影響を与えた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ツルゲーネフ (1818-1883) 65歳で死亡。 (一部抜粋しています)
マルクスの死後5ヵ月余りを経て、ツルゲーネフが死ぬ。
ツルゲーネフは『猟人日記』を書いた30代のころから白髪が目立ちはじめ、『その前夜』を書いた40代の始めごろからみずから老人と称し、白髪のゆえにもう恋愛はあきらめなければならないと嘆き、『処女地』の構想をねりはじめた55歳のときには、次のような手紙を友人に書いた。
「情熱の冷えが日ごと深く私の心にはいりこみ、ますます強く心を包みます。私は自分の中の一切の無関心に自分でびっくりしています。・・・・この世で起こっている一切が、私には何とうとましく、虚しく、ものうく、無目的なものに見えることでしょう」
しかし彼は、実際には富と名声につつまれて、ロシアのスパスコエ(そこが大地主である彼の領地であった)、ドイツのバーデン・バーデン、フランスのパリなど住所を変えながら、トルストイやメリメやフローベールなどと交際したり、歌姫にして人妻たるマダム・ヴィアルドーと不可思議なる愛の交流をしたりして後半生を送った。
死の前々年の1881年8月、ツルゲーネフがヤスナヤ・ポリヤナのトルストイを訪問したとき、死の恐怖が話題になった。ツルゲーネフは、人間が死を恐れるのは自然のことだ、といい、トルストイは、本当に生きている人間は死を怖れないものだ、といった。ツルゲーネフは客一同を見まわして、死ぬのが怖い人間は手をあげなさい、といい、自分がまず手をあげた。
「どうやら私ひとりのようだ」
と、彼がつぶやいたとき、トルストイが苦しそうな顔をして手をあげた。・・・・
ツルゲーネフはまた詩の中で書いた。
「(死に臨んで)何を思うだろうか?
 おそらく私は、何も思うまいと努めるにちがいない。
 ゆくてにたちこめる怖ろしい暗闇に目をふさぎたいばかりに、
 何かつまらないことを、しいて思い浮かべるにちがいない」
ともあれツルゲーネフは、62歳になった1880年ごろから背中の痛みを訴えはじめ、1882年のはじめには、それまで階段を上るときだけ痛んだものが、ふつうの歩行にも、また背中だけでなく胸まで、たえがたいほど痛むようになった。彼は神経痛だと思い、医師は狭心症だと診断したが、実はすでに、脊髄ガンが彼にとりついていたのであった。
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それでも、死の数ヵ月前に彼はいっている。
「人生は、それにしてもいいものだ」
「はかなさが、私をぞっとさせる。それにしても、まだ生きたい」
やがて夏が来て、彼は痛みのために毛布をひき裂こうとし、一昼夜に何度もモルヒネを注射してもらい、ウトウトと眠り、醒めると、ロシア語、ドイツ語、英語でわけのわからないことをさけびはじめた。彼はもう「何かつまらないこと」さえ思い浮べる余裕はなかったに相違ない。
ロシア歴で8月22日、太陽暦で9月3日午後2時、彼の業苦(ごうく)は止んだ。
このやさしい眼を持ったメランコリックな大作家には、何百万年かの後、ウジ虫のような人類がすべて死に絶えたあと、蒼空に白くそそり立つユンゲフラウとフィンステラールホルンが静謐(せいひつ)になった地上を見下ろして、「これでせいせいした」と話し合う散文詩『対話』がある。

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