じじぃの「人の死にざま_619_チェーホフ」

アントン・チェーホフ - あのひと検索 SPYSEE
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「三人姉妹」 アントン・チェーホフ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=rAG4p4MS4dE
Anton Chekhov 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=CY6ltI1n5Lo
桜の園
http://www.gutenberg21.co.jp/cherry.htm
アントン・チェーホフ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフは、ロシアを代表する劇作家であり、短編小説家。
【生涯】
アントン・チェーホフはロシアのタガンログに生まれた。
1879年に中学を卒業してモスクワに移り、モスクワ大学医学部に入学した。アントーシャ・チェホンテーなど複数のペンネームを用いて雑誌にユーモア短編を寄稿するようになった。
1890年の4月から12月にかけて、チェーホフは当時流刑地として使用されていたサハリン島へ「突然」でかけ、過酷な囚人たちの生活をや環境をつぶさに観察し記録を残した。
1892年にメリホヴォに移り住み、ここで1895年の秋に長編戯曲『かもめ』を執筆した。この作品は翌1896年秋にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場で初演されたが、これはロシア演劇史上類例がないといわれるほどの失敗に終わった、と長年いわれてきたが、最近の研究では、むしろ成功をおさめた部類なのではないかともいわれている。2年後の1898年にはモスクワ芸術座によって再演されて大きな成功を収め、チェーホフの劇作家としての名声は揺るぎないものとなった。モスクワ芸術座はこの成功を記念して飛翔するかもめの姿をデザインした意匠をシンボル・マークに採用した。
この1898年にチェーホフはヤルタに家を建て、翌1899年に同地に移り住んだ。ここで短編小説「犬を連れた奥さん」などを執筆した。またこの1899年にはモスクワ芸術座で『ワーニャ伯父さん』が初演され、1901年には同じくモスクワ芸術座で『三人姉妹』が初演された。この時マーシャ役を演じた女優、オリガ・クニッペルと同年5月に結婚した。
1904年には最後の作品『桜の園』がやはりモスクワ芸術座によって初演された。同年6月に結核の治療のためドイツのバーデンワイラーに転地療養したが、7月2日に同地で亡くなった。最後の言葉はドイツ語で「私は死ぬ」であったと伝えられる。現在はノヴォデヴィチ墓地に葬られている。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
チェーホフ (1860-1904) 44歳で死亡。(一部抜粋しています)
アントン・チェーホフは、貧しい医学生時代の苦闘がたたったのか、20代の終りごろからしばしば喀血を見るようになった。しかし彼は、医者でありながら、ほとんど一生、結核であることを、他人のみならず自分にも認めようとはしなかった。それは胃から出る血だと他人にいい、自分でもそう考えていた。
1897年3月、彼が37歳のとき、また大喀血をやって、モスクワのオストロウーモフ病院に入院したとき、老トルストイが見舞いに来た。面会謝絶ということになっていたが、チェーホフは感激してこの大作家を迎えた。
トルストイは、彼の信念たる魂の不死を説いた。黙って聞いていたチェーホフは、やがてポツリといった。
「そういう不死でしたら、私には不要です」
哀愁と人間愛にみちた数々の名作を書いた温雅なチェーホフは、神を信じていなかった。
1902年、42歳で、彼ははじめて結婚をした。相手はモスクワ芸術座の女優オリガ・クニッペルであった。それまで何度か結婚の機会がありながら、自分の病身なことや、母や兄弟の扶養責任や、さらに結婚生活というものに期待感の持てない人生観から、すべて斥(しりぞ)けて来たチェーホフが、この年ではじめて結婚する気になったのは、死を2年後に控えた無意識的な、人生の夕映えのような最後の燃焼であったか。それとも、だれからも愛されながら、一人の親友も持たなかった強い意志を持つ彼も、ついにまぬがれなかった晩年の気の弱りでもあったか。
結婚の2ヵ月後に、彼は、自分の死後の財産の分配法を指示した遺書を、ひそかに妹マリア宛てに書いている。
喀血や発熱や下痢――彼はすでに腸結核にも冒(おか)されていた――が次第に頻繁になってゆく身体で、しかし彼は1903年、有名な『桜の園』を書いた。そしてこれは、翌1904年1月17日(ロシア歴)モスクワ芸術座で初演され、絶賛をあびた。
日露戦争が勃発したのは、それから10日目であった。ニコライ2性の暴政に日本軍が一撃を加えてくるかも知れない、という期待を持ちつつ、一方では、愛国者たるチェーホフは、身体さえ丈夫なら軍医として出征したい、ともらした。
6月のはじめ、南独のバーデンヴィァイラーに静養にゆく前日、彼を訪問した旧知のエヌ・デ・テレショフはこう書いている。
「ひどい痩せかたで、アントン・パヴロヴィッチとは判別出来ないくらいだった。こんな変わり方をしていようとはとても信じられないほどだった。が、彼は見るも怖ろしい、弱々しい蝋(ろう)のような手をさしのべ、やさしい、しかし、もはや微笑の見えない眼でこういった。――≪明日、発(た)ちます。さようなら、死ににゆくのです≫」
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7月2日の午前1時、かれは苦しげにうわごとをいった。それは何か、日本軍のことだった。やがて、胸の上におかれた氷嚢(ひょうのう)にわれに返り、彼は哀しげな微笑を浮べていった。
「からっぽの心臓の上に氷をおいてはいけない」
医者が呼ばれ、酸素吸入をし、さらに新しい酸素をとりよせようとすると、
「もうよろしい。その前に僕は死ぬよ」
と、いった。そして、
「イッヒ、シュテルベ」
私は死ぬ、ということを彼はドイツ語でいった。それから、妻がシャンペンのグラスをさし出すと、彼特有の静かな、ふしぎな微笑を浮べて、それを飲みほし、
「ずいぶん長い間、飲まなかったね」
といい、やがてこときれた。7月2日、午前3時であった。

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