じじぃの「人の死にざま_623_A・プーシキン」

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Alexander Pushkin 動画 YouTube
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アレクサンドル・プーシキン
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アレクサンドル・プーシキン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキンは、ロシアの詩人・作家。ロシア近代文学の嚆矢とされる。
【生涯】
父親は由緒ある家柄のロシアの地主貴族。母親の祖父アブラム・ペトロヴィチ・ガンニバルは、ピョートル1世に寵愛された黒人奴隷上がりのエリート軍人であった。
1820年、最初の長編詩『ルスラーンとリュドミーラ』を発表。
次第に政治色を帯びた詩を発表するようになり、文学的急進派の代弁者となっていった。それを疎んだ政府は、1820年に彼をキシニョフへ送る。1823年までキシニョフに留まった。その間、夏にカフカースコーカサス)とクリミアに旅して長編詩『コーカサスの虜』や『バフチサライの泉』を書き、高い評価を得た。1823年にはオデッサに移り住むが、再び政府と衝突し、1824年に両親の住む北ロシア、プスコフ県ミハイロフスコエ村に送られる。1826年、皇帝ニコライ1世への嘆願が認められてペテルブルクに戻る。しかし、1825年に起こったデカブリストの蜂起の後の締め付けのために、デカブリスト(十二月党員)に友人をもつプーシキンは、北ロシアにいた時期に書いた『ボリス・ゴドゥノフ』などの詩を発表することが許されず、政府の監視のもと、窮屈な生活を余儀なくされる。結婚の前年の1830年には、ボルジノにてロシア初の短篇小説『ベールキン物語』、叙事詩『コロムナの家』、『ヌーリン伯爵』、韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』を完成する。
1831年、ナターリア・ゴンチャロワと結婚。その後、低位の階級を与えられ帝室への出入りを許されるが、この申し出を、名うての美人で、密かに慕う者が多かったと言われる妻ナターリアを帝室に出入りさせるためのものとして、屈辱と受け取った。プーシキンの進歩思想を嫌った宮廷貴族達は、フランス人のジョルジュ・ダンテスをたきつけ、ナターリアに言い寄らせる。1837年1月27日、プーシキンは妻に執拗に言い寄るダンテスに決闘を挑み、決闘で受けた傷がもとで、その2日後に息を引き取った。政治的な騒動を恐れた政府は、親しい者だけを集めて密かに葬儀を執り行った。遺体はミハイロフスコエ付近のウスペンスキー大聖堂の墓地に埋葬された。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
プーシキン (1799-1837) 38歳で死亡。(一部抜粋しています)
賭博好き、酒好き、女好きの上に生来反体制精神の持主であるため、ロシア上流階級の鼻つまみとなりながら、一方で、『エヴゲーニイ・オネーギン』『大尉の娘』『スペードの女王』などの小説や詩で、民衆から国民詩人視されたプーシキン――彼は現代でもソ連ではトルストイ以上に国民作家視されているといわれる――は1837年1月、ジョルジュ・ダンテスから決闘状を受け取った。
ダンテスは、元フランス近衛兵でありながら、駐露オランダ公使フォン・ヘッケレン男爵の容姿となっているという、現代の常識では律し得ない身分であった。これが、プーシキンの美しい妻ナターリアと恋愛し、プーシキンがダンテスをはげしくなじったことから、逆に決闘状をつきつけられる羽目となったのだ。一説にプーシキンを憎むロシア上流階級の一部の謀略であったともいわれる。
1月27日、聖ペテルスブルグ郊外の雪のつもった丘の上で、ピストルの決闘が行われた。
これまで決闘馴れしていたプーシキンであったが、その日は敗れた。相手の右腕も傷つけたが、彼のほうは下腹部に撃ちこまれた。
彼は馬車で自宅まで連れ戻された。そのときまで彼はなお気力を残していたが、やがて怖ろしい苦しみがはじまった。まるで生皮をはがれる動物のようにさけび出し、正規にたえない猛烈な痙攣(けいれん)を起こし、硬直した身体でベッド中をころげまわり、ついに床の上にころげ落ちた。
この苦しみを1月29日まで繰返し、正午ごろ「日除けを下ろしてくれ・・・・眠りたいから」と、つぶやくと彼は息絶えた。
家の外は、彼のことを知った市民で、十重二十重(ひとはたえ)に囲まれていた。民衆はさけんでいた。
「ダンテスを殺せ! ダンテスを殺せ!」
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奇怪なことに、このジョルジュ・ダンテスは、彼の恋愛したナターリアではなく、その妹カテリーナと結婚して故郷アルザスに帰り、平凡で単調な人生を送った。

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