じじぃの「人の死にざま_629_A・デュマ」

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アレクサンドル・デュマ
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アレクサンドル・デュマ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
アレクサンドル・デュマは、フランスの小説家。『椿姫』を著した同名の息子と区別するために、大デュマとも呼ばれる。
【人物】
1802年7月24日に同名の父トマ=アレクサンドル・デュマ将軍と母マリー=ルイーズ=エリザベート・ラブーレの子として北フランスエーヌ県ヴィレール・コトレに生まれる。
1829年、『アンリ三世とその宮廷』の成功によって一躍名をあげ、歴史劇『クリスティーヌ』や自身の不倫体験をもとにした現代劇『アントニー』などを次々と新作を発表し、たちまちのうちに売れっ子劇作家となった。
やがて、元歴史教師でフランス史に造詣が深いオーギュスト・マケと組んで、歴史小説も発表するようになった。当時、新聞各紙は購読者を増やすために小説を連載するようになっており、これに目をつけたデュマは、新聞各紙に、『モンテ・クリスト伯巌窟王)』、『三銃士』に始まる『ダルタニャン物語』、『王妃マルゴ』、『王妃の首飾り』などを連載し、どれもベストセラーとなった。デュマの懐には莫大な金がころがりこんだが、彼はその金で豪邸「モンテ=クリスト城」を建て、毎夜酒宴を開き、女優たちと浮名を流すといった派手な生活を繰り広げた。さらに、国王ルイ・フィリップの五男モンパンシエ公爵の庇護の下、1847年に「歴史劇場」を建設し、自分の作品を劇にして上演させた。デュマの作品はどれも大当たりで、劇場経営でも巨富を手にした。
1870年、子供たちに見守られながら息を引き取る。ベストセラーを連発し、莫大な金が流れ込んでいたにもかかわらず、晩年にはそのほとんどを使い果たしており、少量の絵画と家具しか残っていなかったという。
【三銃士】
フランスの片田舎ガスコーニュ出身の若者ダルタニャンが、立身出世を夢見て、銃士になるべく都会パリに出てきて、銃士隊で有名なアトス・ポルトス・アラミスの三銃士(ダルタニャンが銃士になるのは後の話)と協力しながら、次々と迫りくる困難を解決していく物語である。フィクションだが、ダルタニャンを始めとする実在人物やラ・ロシェル包囲戦などの史実が多く登場する。
日本では『三銃士』のみが有名だが、『三銃士』は第1部に過ぎず、全体の分量からも4分の1以下である。続編に第2部『二十年後』と第3部『ブラジュロンヌ子爵』がある。3部作をまとめて『ダルタニャン物語』と呼ぶ。
表題の銃士とは、もともと最新式のマスケット銃を装備した乗馬歩兵で竜騎兵の一種だが、『三銃士』の中では銃撃戦は少なく、剣での斬り合いが主になっている。
ラグビーなどで有名な言葉「一人は皆の為に、皆は一人の為に」は、本作が出典である。もっとも平尾誠二によれば、ラグビーでは再度の「un」が指すのは“一人”ではなく“一つの目的”つまり勝利だという。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
デュマ (1802-1870) 68歳で死亡。 (一部抜粋しています)
モンテ・クリスト伯』『三銃士』をはじめ、一生に257篇の小説と25巻の戯曲を書くという、天馬空をゆく空想力と絶倫の精力を持ち、宮殿のような大邸宅の生活や無数の愛人に湯水のごとく金を浪費した大デュマ――アレクサンドル・デュマは、晩年はたと創作力と人気を失った。
40年にわたる執筆生活ののち、彼は肉体的には何の衰えもないのに、彼にものを書かせる力が、機械が停止したようにとまってしまったことを知った。しかし彼にあるのは借金の山だけであった。
彼はやむなく商店の広告文を書いたり、料理の本を書いたりしたが、生活に困窮して息子の小デュマ――『椿姫』の作者――に養ってもらうよりほかはなくなった。
1870年の秋になると、身体の具合も悪くなり、尿の排泄が困難になり、全身にむくみが出て来た。腎臓が悪くなったのであろう。
そのころ女中が、彼の古洋服を箪笥(たんす)にしまいこもうとして、ポケットからナポレオン金貨が1枚出て来たのを見て、大デュマは小デュマに笑っていった。
「50年前、おれが田舎からパリに出て来たとき持っていたのが、それくらいの金だった。おれを浪費家というやつがあるが、おれは一文も減らさなかったよ」
病状が進んだある日、彼はいった。
「金も名誉も得たころ、ユゴーが、これからは君も後世に残る作品を書け、といったが、おれはその忠告に従わなかったことが残念だ。・・・・おれの作品は美味(うま)過ぎて、すぐに排泄されて忘れられたのだ」
「そんなことはありませんよ。『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』をだれが忘れるものですか」
と、小デュマはいった。大デュマは疑わしそうにいった。
「お前はほんとうにあんなものが面白いと思っているのかね」
「そうですとも、あれはもう古典ですよ」
「おれはそうは思わないが、しかしお前がそういうなら、おれも読んでおけばよかった」
小デュマは唖然とした。大デュマは笑いながらいった。
「読むか、書くか。おれは両方やるひまがなかったから、書くほうにまわって、読むのは読者にまかせたんだ」
「わかりました。しかしいまは充分読む時間がありますよ」
と、小デュマはいって、すぐに両腕に父の小説を山ほど運んで来た。
大デュマは『モンテ・クリスト伯』を読みはじめたが、やがていった。
「なるほど面白い。たしかに傑作だ。・・・・しかし、結末を見とどけるまでおれは生きておれそうもないよ」
一生いたずら好きであった大デュマの最後のいたずらであった。
彼はそのまま眠りこみ、12月5日に死んだ。

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