じじぃの「人の死にざま_949_L・ブレジネフ」

レオニード・ブレジネフ - あのひと検索 SPYSEE
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ロシア革命60周年記念式典(ブレジネフ).wmv 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=OgSdrc5KXAU
レオニード・ブレジネフ ウィキペディアWikipedia)より
レオニード・イリイチ・ブレジネフ(ラテン文字表記の例:Leonid Il'ich Brezhnev)は、ソビエト連邦の政治家。同国の第5代最高指導者。1964年のニキータ・フルシチョフの失脚により、ソビエト連邦共産党中央委員会第一書記(1966年、書記長に改称)に就任して最高指導者となり、閣僚会議議長(首相)のアレクセイ・コスイギン、最高会議幹部会議長国家元首)のニコライ・ポドゴルヌイと集団指導体制を敷いた。1977年から、死去する1982年までの間は最高会議幹部会議長を兼任し、ソ連邦元帥にもなっている。
称号はブルガリア民共和国英雄称号を3回、ドイツ民主共和国英雄の称号を3回、モンゴル人民共和国英雄を3回、同国労働英雄を3回、チェコスロバキア社会主義共和国英雄を3回授与されている。
また、国歌を編集したことでも知られる。
【ブレジネフの功罪】
ブレジネフはスターリンに次ぐ長期間ソ連を統治した。しかしロシアにおける彼の死後の評価は歴史家の間で非常に低い。彼は基本的経済問題の無視とソ連の政治体制の衰退を黙認し、「沈滞の時代」を長引かせたことで非難されている。彼の貪欲な虚栄心はさらに非難された。ブレジネフの功績は、ソ連が彼の指導の下前例のない国力と国威を得たことであった。彼は外交における熟練したネゴシエーターであり、ソ連の経済問題はスターリンから受け継いだ社会主義体制が本質的に保有するものであった。社会体制改良の試みは彼よりはるかに若く最終的な後継者であるミハイル・ゴルバチョフに引き継がれた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ブレジネフ (1907-1982) 76歳で死亡。(一部抜粋しています)
1964年以来18年間、ソ連の最高指導者であったブレジネフ書記長は、1982年11月7日の革命記念軍事パレードには、2時間に及び零下5度の寒風の中に立って親閲し、またそのあとのクレムリン宮殿での祝賀レセプションにも出席したが、終始二コリともしなかった。
そのころソビエトは、政治、外交、経済すべてゆぎづまり、民心は沈滞の底にあり、彼に笑顔の出る余裕などはない状態にあった。
彼は少なくともその7年前からアメリカ製の心臓ペースメーカーを心臓に植え込んでいたといわれる。またその2、3年前から表情にとぼしい仮面性顔貌を呈していたのは、脳の動脈硬化の進行にともなう神経の錐体外路系の障害を物語っており、おそらく適正な政治判断を下せる精神状態にはなかったものと見られている。
同時に、そのころから彼に、個人崇拝を期待する自己顕示性がいちじるしくなり、上半身をおびただしい勲章で覆った彼の姿がしばしば写真で見られるようになった。彼の心臓を悪くしたのは、この勲章の鎧(よろい)のせいもあったかも知れない。
パレード親閲の3日後の11月10日午前8時、彼は心筋梗塞で急死した。大国の指導者が死亡したというのに、それが公表されたのは26時間後であった。
18年間ソビエトに君臨していた人物であったにもかかわらず、その死後、ソビエト国民の間に彼の名がささやかれることはほとんどなかった。

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