じじぃの「人の生きざま_134_M・サッチャー」

「鉄の女」サッチャー元英首相死去、民営化などで国内外に影響 (追加) 2013年4月9日 朝日新聞デジタル
「鉄の女」と呼ばれ、国営企業の民営化などで内外の保守派に影響を与えたマーガレット・サッチャー元英首相が8日午前、脳卒中で死去した。87歳だった。
http://www.asahi.com/international/reuters/RTR201304080121.html
マーガレット・サッチャー - あのひと検索 SPYSEE
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映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』予告編 動画 YouTube
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映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』特別映像 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=EhTWWkFl6aE&feature=relmfu
マーガレット・サッチャー ウィキペディアWikipedia)より
マーガレット・ヒルダ・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher, 1925年10月13日 - 2013年4月8日)は、イギリスの政治家。
イギリス史上初の、女性保守党党首、英国首相(在任: 1979年 - 1990年)。1992年からは貴族院議員。保守的かつ強硬なその性格から鉄の女(Iron Lady)の異名を取った。認知症のため2012年現在は表舞台には姿を見せていない。
【保守党党首】
1974年の選挙で保守党は敗北を喫し、翌1975年2月に保守党党首選挙が行われる。当初、サッチャーは党内右派のキース・ジョセフを支持していたが、ジョセフは数々の舌禍を巻き起こして党内外から反発を受け、立候補を断念してしまった。そのため、右派からはサッチャーが出馬する。教育科学相の経験しかないサッチャーの党首選への出馬を不安視する声も多かったが、エドワード・ヒースを破り保守党党首に就任する。同年、イギリスを含む全35ヵ国で調印、採択されたヘルシンキ宣言を痛烈に批判した。これに対し、ソビエト連邦国防省機関紙「クラスナーヤ・ズヴェーズダ(赤い星:現在でもロシア連邦国防省機関紙として刊行)」は1976年1月24日号の記事の中で、サッチャーを鉄の女と呼び、非難した。皮肉にも、この「鉄の女」の呼び名をサッチャー自身も気に入り、またその後あらゆるメディアで取り上げられたために、サッチャーの代名詞として定着した。
【日本での評価】
サッチャーの首相就任から間もなく、1980年に選出されたアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン新自由主義的な政策を数多く打ち出した。さらにニュージーランドでもデビッド・ロンギが新自由主義を主導し、80年代はアングロサクソン各国において新自由主義が台頭する時代となる。また、この時期、日本においても、1982年に首相に就任した中曽根康弘により、行政改革国鉄分割民営化(1987年)などが行われた。
また日本では、安倍晋三平沼赳夫藤岡信勝など、現在の歴史教育は「自虐的」と考える論者から、「偏向自虐歴史教科書を克服した先例」とされた。2006年に行われた教育基本法改正や教育バウチャー制度導入の動きは、サッチャーを模範としたものである。

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TIMEが選ぶ20世紀の100人〈上巻〉指導者・革命家・科学者・思想家・起業家 徳岡孝夫/訳 1999年発行
マーガレット・サッチャー 【執筆者】ポール・ジョンソン (一部抜粋しています)
サッチャーはいわば触媒だった。彼女がかかわった一連の出来事が相互に絡み合い、それが今世紀最後の20年間に革新的な展開をもたらしたことによって、人類は、希望と自信のうちに1000年紀を迎えられるようになった。資本主義の勝利、繁栄に不可欠なものとして世界中で市場経済が受け入れられ、ソビエト帝国主義が崩壊し、世界中のほとんどの大陸とほとんどの国で国家のスリム化が実施されたこと――マーガレット・サッチャーは、こうしたすべての変化に貢献した。これらのどれひとつをとっても彼女なくして、実現したとは思えない。
1925年にグランサムの小売商の娘として生まれたマーガレット・ヒルダ・ロバーツは、非常に勤勉な少女であった。奨学金を受けて勉強し、努力してオックスフォード大学に入学し、化学と法学のふたつの学位を取得した。政治に情熱を燃やした彼女は、努力の末、保守党の指定席のひとつ、ロンドン北部のフィンチェリーで議席を獲得し、34歳で下院議員となった。
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サッチャーが世界に名だたる人物となったのは、その政治活動のためだけではない。彼女は燃えるような意志の力とだれの目にも明らかな女性らしさを兼ね備えていた。それが世界中の注目を浴びたのだ。1982年、アルゼンチンとの戦いで英国を目覚ましい勝利に導いてからは、なおさらであった。サッチャーは、政治家は軍人に対して、目的に関してははっきりした命令を与え、方法に関しては口を挟んではならないということを理解していた。それでも、彼女は兵士や船や飛行機を失うことに耐えられなかった。「そのために船や飛行機を余分に持っているのです。損失を補うために」と、海軍の司令官たちは言わなければならなかった。サッチャーにとって誠実は、勇気、忠誠、忍耐と並ぶ大切な美徳であり、彼女はそれらの美徳をもっとも高い水準で身につけていた。世界中の人々がサッチャーの方法と業績に注目し、真似し始めた。
サッチャーを早くから賞賛していた人物にひとりが、18ヵ月遅れて権力の座に就いたロナルド・レーガンであった。彼もまた米国で、効果的な規制緩和、減税、自由企業へのより広範な市場機会の解放によって「断続的拡大」の逆転に取り組み始めていた。レーガンは、市場や小さな政府の長所についてサッチャーの話をあれこれ聴くのが好きだった。「覚えておくよ、マーガレット」と彼は言った。サッチャーは注意深くレーガンの冗談に耳を掲げ、オチをつかむことに務め、タイミングよく笑った。
ふたりは互いに対する好感を外交政策の強力なパートナーシップに変えた。レーガンサッチャーが権力を握ると、ソ連に的確なプレッシャーをかけて、改革、あるいは、ソ連そのものの解体または内部崩壊を促進する政策が受け入れられるようになった。サッチャーレーガンの、軍事力を強化することによってソ連を交渉のテーブルに就かせるという方針を温かく励ました。サッチャーレーガンは、ソ連は「悪の帝国」であり、なるべく早く解体したほうがよいという見解で一致していた。サッチャーレーガンとともに、ミハイル・ゴルバチョフペレストロイカ政策を限界にまで追求し、ソ連のエリートたちの自信を失わせるほど致命的な状況に達するよう追い立てた。
歴史家はソ連共産主義に終焉をもたらしたさまざまな人物の役割について、熱い議論を交わすことだろう。だが、この大きな出来毎の中でサッチャーが重要な役割を果たしたことはすでに明らかである。
新しい時代の幕開けであった。20世紀をあれほど暴力的にし、理想主義者を幻滅させたあらゆる勢力――全体主義、巨大国家、個人の選択と自主性に対する弾圧――が、公然と、華々しく打ち倒された。代わりに台頭したのは、自由な市場と自由な心という、サッチャーが時に猛反対に遭いながらも支持してきた価値であった。世界がより賢明な21世紀と3度目の1000年紀を迎えることができるのは、単純明快で実行可能なアイデアを心に秘めた意志の力ほど強いものはないということを証明した、この小さな商店主の娘によるところが大なのである。

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