じじぃの「人の死にざま_710_ヴォルテール」

ヴォルテール - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%AB/2507/
Le Traite sur la Tolerance (Voltaire) - LE CODEX #2 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=v7Oqdb25hrE
Voltaire vs The Night Before Christmas - When You're Evil! 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=WUITn7I9-f0
ヴォルテール便り : ヴォルテールの人生(1)
http://voltaire.exblog.jp/2641620/
100分 de 名著 新春特番「平和論」 2016年1月2日 NHK Eテレ
【司会】伊集院光武内陶子 【朗読】長塚京三 【ゲスト講師】斎藤環『人はなぜ戦争をするのか』(フロイト)、水野和夫『地中海』(ブローデル)、高橋源一郎『寛容論』(ヴォルテール)、田中優子『日本永代蔵』(井原西鶴
18世紀を代表する思想家、ヴォルテールが、フランスのトゥールーズで発生したえん罪事件を受けて出版した作品。当時のフランス社会を支配していたカトリック派の不寛容さについて、批判した。
2015年11月13日にパリ同時多発テロ事件が起きた。パリ在住のアントワーヌ・レイリスさんは妻を亡くした。3日後の16日、彼はFacebookにこう書き込んだ。
「あなたたちの願い通りに憎しみを抱いたりはしません」
250年前の南仏トゥールーズで起きた冤罪事件は、宗教上の狂信的な差別意識の絡んだ事件だった。当時としては、宗教上の狂信的な差別意識の絡んだ事件は特筆する程のものではないのだが、ヴォルテールが被告の名誉回復のために奔走しようと秘密委員会を設置した。理性に全幅の信頼を置いて世論を喚起したヴォルテール の、社会の狂信と偏見に対する思想闘争の軌跡が、著作『寛容論』(1763年)に記述されている。
テロ事件以降、ヴォルテールの著作『寛容論』が、ベストセラーになっている。
「Pray, and Think」(祈りながら、深く考える)が、寛容論の精神 (高橋源一郎)。
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2016special/index.html
ヴォルテール ウィキペディアWikipedia) より
ヴォルテールは、啓蒙主義を代表するフランスの多才な哲学者、作家。パリの公証人の子。本名は、フランソワ=マリー・アルエ。ヴォルテールという名はペンネームのようなもので、Arouetのアナグラムの一種、「ヴォロンテール」(意地っぱり)という小さい頃からの渾名をもじった等諸説ある。
【経歴】
1718年に喜劇『オイディプス』を発表したが、その直後に摂政・オルレアン公フィリップ2世を諷刺したとしてバスティーユに投獄された。1726年、けんかのため再び投獄、まもなく釈放され、1728年までイギリスに亡命した。アイザック・ニュートンジョン・ロックなどの思想を直接知って哲学に目ざめ、帰国後1734年に『哲学書簡』(別名『イギリス書簡』)を著した。その後、文学、哲学、歴史学など多様な分野の第一線で活躍し、1750年には、プロイセンのフリードリヒ大王を訪問した。帰国後「百科全書」にも寄稿した(直後に「百科全書」は出版許可が取り消される)。それまでの彼の活動を寓話的に総括し、合わせてゴットフリート・ライプニッツの「弁神論」に代表される調和的で楽観的な世界観を批判したのがコント『カンディード』(1759年)といえる。1760年にスイス国境に接するフランスの街フェルネーに居を定めてからは、折から生じたカラス事件などをきっかけに、自由主義的な政治的発言を活発に行った。この時期の代表作として、『寛容論』(1763年)、『哲学辞典』(1764年)などがあげられる。1778年4月7日パリでベンジャミン・フランクリンによりフランマソヌリに入会しフリーメイソンとなる。
つねに目立ったところで行われた反ローマ・カトリック、反権力の精力的な執筆活動や発言により、ヴォルテールは18世紀的自由主義の一つの象徴とみなされた。没後、パリの教会が埋葬を拒否したためスイス国境近くに葬られたが、フランス革命中の1791年、ジロンド派の影響によって、パリのパンテオンに移された。

                              • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ヴォルテール (1694-1778) 84歳で死亡。 (一部抜粋しています)
18世紀、小説、詩、戯曲、評論等で一世を風靡(ふうび)する一方、いわゆる神学はおろか聖書、教会にも痛烈な批判を加えたために、いくどか投獄され、ついにフランスから亡命の途に上ったが、イギリス、ドイツ、スイスなどにあって執筆をつづけ、全ヨーロッパから最高の叡智(えいち)と仰がれたヴォルテールは、1777年、83歳で、17年ぶりにパリに帰って、王者の凱旋のごとく迎えられた。
全パリから熱狂的な歓迎を受けながら、老来、肺結核前立腺肥大や膀胱炎の持病を持つヴォルテールの健康は急速に悪化し、パリに帰って15日目に鼻口から血を吐き、重体におちいってしまった。当時は教会から認められなければ、葬式がしてもらえなかった。無神論の代表者と見られていたヴォルテールはどうしたか。
彼はともかくも詩歳を詠んだ。しかし聖餐の儀式を受けることになったとき、「私はいまでも痰に血が混(まじ)ります。神の血と私の血がいり混らないようにして下さい」といったので、その儀式はとりやめになった。
その後の健康は回復し、翌年3月30日、彼の戯曲『イレーヌ』がコメディ・フランセーズ座で大成功裡に初公演され、彼は最高の栄光につつまれたが、5月にはいるとまた健康が衰えはじめた。
5月30日夕刻、病床で司祭が、「あなたはまもなく御臨終です。死の前に、イエス・キリストの神性をお認めになる気はありませんか」といいかけたのに対してヴォルテールは、
イエス・キリスト? イエス・キリスト?」
と、繰返しつぶやいたあと、両手を出して司祭をおし戻し、
「静かに往生(おうじょう)させてもらいたい」
といったのが最後の言葉であった。その夜11時ごろ彼は息をひきとった。
このためパリに埋葬することは許されなかったので、彼の遺骸はシャンパーニュの寒村に葬られたが、13年後、フランス革命の革命政府が遺骸をパリに運び、パンテオンに埋め直した。ところが、それからまた23年後、今度は王党派の者がパンテオンからヴォルテールと、同年に死んだルソーの遺骸を盗み出し、以来そのゆくえはわからない。

                              • -

フランソワ・ヴォルテール Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivns&ei=vfl8TubwJOfPmAXThoRT&oq=%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%AB++%E7%94%BB%E5%83%8F&aq=f&aqi=&gs_upl=14705l18777l0l19526l8l8l0l7l0l0l125l125l0.1l1l0&oi=image_result_group&sa=X&q=%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%AB%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbm=isch