じじぃの「人の死にざま_705_松平・信」

松平信綱 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E7%B6%B1/8595/
松平信綱
http://www.geocities.jp/annaka29jp/jyosuijiten/matudaira/matudaira.html
松平信綱 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
松平信綱は、江戸時代前期の大名で川越藩主。老中。官位名入りの松平伊豆守信綱の呼称で知られる。
幕藩体制の完成】
島原の乱後、信綱はキリシタン取締りの強化や武家諸法度の改正、ポルトガル人の追放を行なった。またオランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国制を完成させた。
寛永15年(1638年)11月に土井利勝らが大老になると、信綱は老中首座になって幕政を統括した。寛永16年(1639年)8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めた。慶安元年(1648年)4月に養父の正綱が死去した際には銀100枚を賜ったが、その遺領は実子の松平正信や松平正朝に継がせて自らは拒絶した。この頃は家光実父の台徳院、生母の崇源院の法事奉行を務めている。
慶安4年(1651年)4月に家光が死去すると、信綱は跡継ぎの家綱に仕えて幼君の補佐を務めた。

                                                • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
松平信綱(まつだいらのぶつな) (1596-1662) 66歳で死亡。 (一部抜粋しています)
世に智慧伊豆と呼ばれ、3代将軍家光の老中としてよく補佐した信綱は、慶安4年家光が死んだとき、重臣堀田正盛、安倍重次らが殉死したのに殉死せず、「伊豆まめは豆腐にしてはよけれども役に立たぬはきらずなりけり」(きらずは小からの意)などという落首を詠まれたり、「弱臣院殿……殉死斟酌(しんしゃく)大居士」などという異名をつけられたが、平然として、そのあとに起こったいわゆる慶安の変などを、波も立たせずに処理した。
そして10年後の寛文2年3月16日、尿閉塞で死んだ。尿道か膀胱に腫瘍か結石でも生じたのであろう。しかし持病の再発があったというから、おそらく後者であったのではないか。
その直前、将軍からもらった書状を焼かせ、その灰を袋にいれてわが遺体の首にかけよ、と命じ、かつまた諸係りの家臣を詠んで所管帳簿を出させ、みなハンコを押してから死んだ、というのはいかにも名官僚の智慧伊豆らしいが、尿閉塞を起していたとあっては、やはり惨澹たるものであったろう。

                                                • -

松平信綱 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E7%B6%B1&oi=image_result_group&sa=X