じじぃの「池上彰・希望と平和・13ヵ国の若者と日本語で語る!TVシンポジウム」

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http://www.youtube.com/watch?v=IxUsgXCaVtc&feature=related
TVシンポジウム 「池上彰と考える“希望と平和”」 2011年9月17日 NHK Eテレ
【コーディネーター】ジャーナリスト 池上彰 【司会】 大林奈津子 【ナレーション】源馬ちか子
【パネリスト】ベトナム代表 ティ・トウ・フォン・チャン(女性・22歳)、アメリカ代表 ハナ・ボウガキウチ・ミリオラト(女性・17歳)、カナダ代表 ケリー・シーミョウ・リアング(女性・23歳)、パラオから来たモモタロ・ティモティ・ジュニア・ウエダ・ラファエル(男性・20歳)、その他
ジャーナリスト・池上彰が、世界13ヵ国の若者と日本語で語り合うシンポジウム「日本語サミット」。今回のテーマは「希望と平和」。被爆地・ヒロシマや東北の被災地などを見て回った世界の若者たちは、何を感じ、何を語るのか。池上の巧みな進行により、話題は日本の文化から、各国の歴史、国際情勢にまで広がる。心に響く豊かな対話が展開。
http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20110917-31-12350&pf=f
どうでもいい、じじぃの日記。
11/25、NHK Eテレ TVシンポジウム 「池上彰と考える“希望と平和”」を観た。
大体、こんなことを言っていた。 (手抜きをしている)
今年7月、ジャーナリストの池上彰さんがコーディネーターを務めるシンポジウムが東京・大手町の日経ホールで開かれました。
テーマは「希望と平和」。パネリストは日本語を話す世界の若者たちです。今世界で何が起きているか、平和のために何ができるのか、幅広い視点から語り合います。
池上彰と考える“希望と平和”
世界各地で日本語を学ぶ若者たちがNPOジャパン・リターン・プログラム(JRP)の招きで来日しました。滞日期間中、東京や広島、宮崎や大阪などを訪れました。日本の文化や習慣に触れながら、「希望と平和」について考え、議論を重ねました。そして7月30日、東京で「日本語サミット」が開かれました。
第1部 パネリストの主張
フォン 私が日本語を勉強したきっかけは『ちびまる子ちゃん』です。ちびまる子ちゃんの漫画が大好きでした。その時からいつか日本語を勉強し、日本に行ってまる子ちゃんに会うという小さな夢をいだきました。そのような小さな夢をちゃんと育ててきた姿は、ここで皆さんの前に立っている現在の私です。ここにいる他のパネリストたちもそれぞれ自分の夢を育てたおかげで日本語サミット、私たちが出会うことができました。35日間私たちはお互いの意見を尊重し、お互い討論することを私は学びました。帰国したら、通訳者になりたいと思います。
ハナ 私は日本人の母とイタリア系アメリカ人の父の間に生まれました。ハーフとして私は子どものころから周りの人とは違うという意識はありました。日本では英語を勉強し、アメリカでは日本語の勉強をし続け、文化を学ぶことによって自分のアイデンティティー(自己同一性)ができてきました。私は文化を半分、半分しか持たないハーフではない。2つの文化をもつダブルだと確信を持って言えるようになりました。私は今、周りと違うことを誇りに思えるようになりました。私の希望は社会に押しつけられるステレオ・タイプに負けないことです。日本人、アメリカ人、ハーフ、こういうステレオ・タイプのアイデンティティーではありません。アイデンティティーは自分で作るものです。そして人々が違いを認めるようになったら、平和な社会を作っていけると思います。
ケリー 私は9歳の時から親と離れ、よその家で育ちました。最初は中国の中を転々とし、13歳の時にカナダに留学して、自力でカナダの国籍を取りました。私の両親はコーサイショウの中国共産党の幹部でした。政治の荒波に呑み込まれ、母はしばらくの間、北京の牢屋に入れられました。父は政治犯の母と女の子で名字を受け継ぐことができない私を捨てました。そんな状況の中で母は私を親戚や友人がいる北京に託して、1人暮らしの寂しさに耐え続けました。私をカナダに送り出し、言葉も文化の違うカナダ人の家庭にホームスティさせたのも母が波乱万丈な人生を送ってなお、人を信じることを諦めていなかったからだと思います。実は今話している日本語も5年間も私を育てた日系カナダ人のおばあさんが教えてくれたものです。私の夢は私を育んでくれた母とたくさんのホストファミリーのように周りの人を信じて支えていくことです。裏切りを恐れずに、信じることが人とつながる第一歩だと思います。
ティモテ 僕が生まれた島は太平洋戦争で一番激しい戦争がありました。日本とアメリカの戦いが始まると僕と同じ年ぐらいの若い日本の兵隊が戦争に徴集され、何ヵ月も戦いました。たくさんの人が島を守るために命を犠牲にしました。今でも2800人以上の遺骨が見つかっていません。パラオの人々は日本人に感謝をしていますが、戦争によって家族を失くした多くの人が生きる希望を無くしました。僕も同じ経験があります。僕は生まれてすぐに父を亡くしました。僕は父の顔も声も覚えていません。父の墓参に行ったとき、何度も泣いてしまいました。そんな時そばにいてくれたのは母です。誰よりもやさしくたった1人で僕を育ててくれた母は僕に生きる希望を与えてくれました。僕の父は生きたくても生きられなかったのですが、僕は父の希望を叶えるために、1日1日を大切に生きていきたいです。僕にとっての平和とは明日があるということです。僕たちの明日はもっと生きたい人の明日なのです。日本の皆さんもこのことを覚えてください。命はかけがえのない宝ものですから、どうぞ1日1日を大切に生きてください。
第2部 希望と平和 パネルディスカッション
池上 見事でしたね、皆さん。日本語でこれだけのことを言える。何となく目がしらが熱くなる思いがあったりしました。実は皆さんが日本に行くことが決まった後、東日本大震災がありました。そして福島原発事故のニュースも出ましたね。それぞれの国で皆さんがそれを見ていて。そんな危険な日本に行くのは止めなさいと言われた人いますか?
ハナ 私はアメリカに住んでいるんですけど、友達から危ないから止めたほうがいいんじゃないの、と言われました。私は日本にすごく行きたかったし、、日本は必ず回復すると信じていたので行かないということは想像もできなかったです。
フォン 放射線は目に見えないし、匂いもないから、両親が心配しました。お前は行かないで、と言われたけど、私はいろいろの情報を受けてもう日本は大丈夫になったと信じて日本に行くことにしました。
池上 今回日本に来るのに何を期待して、何を楽しみに来たのか、ボードに書いてもらいました。
ティモテ 「自分の目で見る」ことです。実際に3月11日の津波の報道を自分の国で聞いた時、自分の目で確かめたいと思って日本に来ました。でも実際日本に来て感じたことは目に見えないものです。僕たちは被災地を訪問しました。その時感じたことはやっぱり4ヵ月経った今でも心が苦しい、そして家族がいなくてつらいということが感じられました。それはニュースやテレビでは報道されない、目では見れないものを感じました。
池上 あなたはパラオにいて、日本に行ったから見えるものがあると思っていた。でも来てみたら目に見えないけれども大事なものを見つけたということなの?
ティモテ そういうことです。それは人と人の関係や、つながり、そして絆です。
池上 わかりました。ちょっと聞きたいことがあるんだけれど、名前はモモタロ・ティモティ・ジュニア・ウエダ・ラファエル、とティモティの前にモモタロと付いていますね。これはどういうことですか?
ティモテ これは昔話の桃太郎さんです、実はパラオは日本の文化がすごく大好きで、僕のお父さんもその1人でした。
池上 パラオは昔、日本の統治領でしたね。かっては中村大統領が誕生した国ですよね。モモタロという名前があるということはキンタロという名前もある?
ティモテ あります。日本の文化や日本の言葉が僕たちの言語にも残っていて、とても日本の文化に憧れています。
池上 3月11日の東日本大震災の被災地を急遽、皆さん、見にいったんですよね。
このシンポジウムの参加者たちが被災地を訪れた際の映像が流れる。
池上 被災地を見て、こんなことを思った、こんなことを皆さんに伝えたいと言うことは何かありますか?
ケリー 私は被災地で明るく振る舞う方々を見て、逆に心配してしまいました。私たちが避難所に行って、親戚を全部失くして1人ぼっちになった人とか、たくさんいたんですけど「来てくれて本当にありがとう。話し聞かせてくれて本当にうれしい」と言ってくれたんですけど、でもその人たちは心の支えが失った部分も大きいですね。心のケアが逆に心配になってきて。
池上 なるほどね。そういう見方もあるでしょう。ただ被災している人にみれば、本当につらい思いをしたり、1人ぼっちになってた。その時にヨルダンやカナダやシリアやリトアニアなどいろんな国から来て、話を聞いてくれるってこと。それは、うれしかったのじゃないかな。それが心の支えになったり、心のケアになっているのではないのか。どうだろう?
ケリー そうですね。傍にいるだけでも支えになると思うんですけど、カナダからの応援が行き届いてないような感じがして・・・・。一過性のことで終ってしまうことは私はちょっと残念なことだと思う。今回被災地に行って、復興作業の難しさをカナダに戻って伝えたいと思います。
池上 3月11日の後、世界のニュースが朝から晩まで日本の災害のことを伝えていました。でもいつかその報道が減ってくる。じゃあ、きっと復興したんだろって勘違いしている人が結構いると思うんだよね。でも君たちが実際見てきて、まだまだなんだと分かったわけですから、是非それをそれぞれの国に帰ってきちんと伝えてもらいたと思うし、たぶん、被災地の人もそのことを思っていたんではないか。
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じじぃの感想
「自分の目で見る」ことです。実際に3月11日の津波の報道を自分の国で聞いた時、自分の目で確かめたいと思って日本に来ました。でも実際日本に来て感じたことは目に見えないものです。僕たちは被災地を訪問しました。その時感じたことはやっぱり4ヵ月経った今でも心が苦しい、そして家族がいなくてつらいということが感じられました。それはニュースやテレビでは報道されない、目では見れないものを感じました」
広島、長崎の原爆と同じなんだ。