じじぃの「人の生きざま_84_A・ガーファンクル」

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Sound Of Silence - Simon & Garfunkel (live sound) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=eZGWQauQOAQ
Simon & Garfunkel - Mrs. Robinson 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=m_jmDscGi7E&feature=related
コンドルは飛んで行く/El Condor Pasa/Simon & Garfunkel 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=enHUwJIE00c&feature=related
アート・ガーファンクル フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
アーサー・アイラ・ガーファンクル(1941年11月5日 - )は、アメリカ合衆国の歌手。俳優としても何作か映画に出演している。ポール・サイモンサイモン&ガーファンクルを結成していた。祖父の代にアメリカに移住したルーマニアユダヤ人で、ニューヨークのクイーンズ区出身。「天使の歌声」と評される美声で知られる。
【略歴】
小学校6年生の時、ポール・サイモンと出会い、トム&ジェリーという名で音楽活動を始めた。1960年代前半、ア−ティ・ガ−の名前で数枚のシングルを発表後、一旦音楽活動を休止しコロンビア大学では建築学・数学や美術史を学んだ。1963年頃ポールと再会した後、1964年サイモン&ガーファンクルとして活動を再開、1970年まで活躍したが解散。その後ソロ歌手として数々のアルバムを発表し、 「瞳は君ゆえに」(I Only Have Eyes For You)や「ブライト・アイズ」(Bright Eyes)などはイギリスでシングル第1位を獲得した。また、俳優として数本の映画に出演、詩集『スティル・ウォーター』を出版。その他にアメリカ大陸徒歩横断を成し遂げ、ヨーロッパ大陸徒歩横断に挑戦するなど幅広く活動している。
1981年、ニューヨークのセントラル・パークコンサートのためにサイモン&ガーファンクルを再結成した。また新しいアルバムの計画もあったが、ガーファンクルがサイモンの歌詞を気に入らないなどお互いに音楽の方向性が違うことから破談となった。
2003年、またサイモン&ガーファンクルを再結成し、「オールド・フレンズ」と題してアメリカやヨーロッパでコンサートツアーを行った。
兄のジェローム・ガーファンクルは事務用プログラミング言語COBOLの開発に関わっている。

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『音楽という戯れ』 相沢啓三/著 三一書房 1991年発行
愛の伝説 ●サイモンとガーファンクル (一部抜粋しています)
サイモンとガーファンクルのデュオが前年の秋、9年ぶりに復活してニューヨークを熱狂させたが、世界ツアーの第一歩として初の日本公演が実現、わたしはその最終日(1982年5月12日後楽園球場)を聴いた。野球場のスタンドに入るのが初めてのわたしには何もかもが珍しかった。わたしの席のはるか下やや右手にグラウンドを仕切って椅子席と裏方を分ける塀があり、その中央に竹を何本も植えこんだ仮設ステージがあった。枯れかけた竹と柱が邪魔になって、2人の姿がよく見えないことは初めからわかっていた。まわりは18、9歳の若い子ばかりで、目の前は遊園地の落下傘塔で、吊り落下傘が次々にキャッと短い悲鳴を落とし、その背後のジェットコースターでは何分おきかにキャーッと長い悲鳴が滑り落ちて行った。
演奏は「ミセス・ロビンソン」で始まり、ライトがついて竹が青々となってわたしはほっとした。ついで「早く家へ帰りたい」そして……聴くうちに球場の大聴衆の壁にサウンドが反響し干渉し、時々大きくうねるのが、過去からのエコーのようだった。
ロックンロール風の局で手拍子が湧いたあとの「スカボロー・フェア」を2人はしっとり聴かせようとしたが、ガーファンクルのかっての魅惑的な高音がすでになく(10数曲にソロで歌った「明日に架ける橋」も苦しそうだった)痛ましい残骸の趣があった。プログラム全体を通じてデリケートで緻密なハーモニーの代わりにロックビートが支配した。解散直前の傾向が強まったもので、若い子たちはハッピーになったが、これでは二流のロック・ショーと変わはない。「サイモン&ガーファンクル」は映画「卒業」とそのサントラ盤で一躍人気を呼んだが、わたしがとりこになったのは「パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム」からだった。アルバムの1曲目「スカボロー・フェア」はチェンバロ風の伴奏とダブル・レコーディングによるカノン風な効果、イギリスの古いバラードを思わせる詩、そのあわいから匂いたつ切ないまでの少年の憧れ。その甘美さはあの時代にあっては衝撃的に新鮮だった。あの時代には本物の悲鳴、無言の悲鳴がみちていた。
次のアルバム「水曜の朝、午前三時」のほうをわたしはもっと愛したが、思えば最後の「明日に架ける橋」までかれらの5年半かけての仕事をわたしたちはあの1967年冬から70年初夏までの1年半の体験に重なり合わせて聴いてしまったのだ。
「明日に架ける橋」のアルバム裏表紙の小さな写真がわたしの「サイモン&ガーファンクル」のイメージである。外套のポケットに両手をつっこんだ長身のガーファンクルの背にサイモンが顔を埋めて押してゆく……。
1964年にイギリスで出してすぐ回収され、69年11月に日本で発売された「ポール・サイモン・ソングブック」はソングライターとしての資質をむきだしにしたサイモンが、シンガーとしてはボブ・ディランのなりそこねという感じだったが、その中のフォークソング風の「私の兄弟」はかれの原点である。
 兄貴だったあいつはぼくの5つ歳上で
 兄貴だったあいつは23歳になった
 その日に死んだ
人種差別撤廃闘争で死んだ青年を悼む詩を、22歳のサイモンが少年の立場で書いているのだが、その哀切さはガーファンクルの透明で少年めいた声を得なければ呪縛的なものとはなりえなかった。音楽的骨格はサイモンにあり、サウンドのイメージはガーファンクルである。かれらはお互いを必要とする分身であり、これが2人にほとんど男同士の愛情を投影させる表現を可能にした。かれらが別れたあと、愛の後光は失われ、倍音を欠いてわびしいサイモンと支えがなくて飛翔できないガーファンクルが残った。2人が昔の真似をしたところで、伝説は死んだのだ。甦りようもなく。

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