じじぃの「人の死にざま_695_大久保・清」

日本の凶悪殺人犯史 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=rQUgYwo5o3c
大久保清連続殺人事件
http://yabusaka.moo.jp/okubokiyosi.htm
大久保清 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
大久保清群馬県碓氷郡八幡村(現高崎市)生まれの元死刑囚。窃盗や強姦、恐喝等の前歴あり。ペンネーム、谷川伊凡。1976年1月22日、死刑が執行された。
【生い立ち】
・末っ子に生まれた大久保は、ロシア人の血を引く母親に溺愛され、成人してからも「ボクちゃん」と呼ばれ子ども扱いされていた。
・1962年、結婚。一男一女をもうける。
・1963年、谷川伊凡のペンネームで詩集『頌歌』を自費出版
・1971年3月2日、強姦致傷(大久保本人によれば合意)で服役していた府中刑務所を出所した後、逮捕されるまでの間、親に仕事で必要だからとねだって買ってもらった当時の最新型スポーツカー、「マツダ・ファミリアロータリークーペ」に乗り、約1000人以上の女性に声を掛け、150人ほど車に乗せ、10数人と肉体関係を持ち、肉体関係を強く拒否した8名を容赦なく殺害、死体を造成地等に埋めて遺棄した。被害届けを出さなかった女性も数知れず、その被害実態は未だに明らかでない。
・ベレー帽を被ってルパシカを着てスポーツカーに乗りながら、画家を自称し「絵のモデルになってくれませんか?」と片っ端から女性に声をかけていたことから、逮捕当時、ルパシカを着た色魔とマスコミで表現された。ロシアの血を引く甘いマスクと巧みな話術、物腰柔らかな態度、女性達は大久保の魅力に引き寄せられるように車に乗り込んだ。
・1971年5月14日、群馬県警藤岡警察署で逮捕。逮捕後しばらくは暴れ馬のように興奮して、取調室で茶碗を投げつけるなどしていたが、いっぱしの芸術論を披露したりして刑事に誉められていくうちに、「死刑になってもかまわないからすべて自供する」と言って自供。「裁判でも自供は変えない」と断言した。
・1973年2月22日、前橋地裁で死刑判決。控訴せず判決が確定。
・1976年1月22日、東京拘置所で死刑執行。死刑執行に対し恐れおののく姿が関連の書籍によって克明に紹介された。執行前からマスコミが拘置所に押しかけ、窓際にたたずむ大久保清をカメラで撮影したり、死刑執行情報をキャッチしたりして、茶の間にいち早く大久保の状況を報道していた。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
大久保清(おおくぼきよし) (1935-1976) 41歳で死亡 (一部抜粋しています)
高崎生まれの大久保清は、20歳のとき女高生を強姦したのを手はじめに、以後同様の犯罪を繰返し、昭和42年またも女子短大生を強姦して3年6ヵ月の刑を受け、府中刑務所に服役した。
服役中も彼は、妖夢ともいうべき凄まじい猥談を披露したり、同囚の眼前で自慰行為をしてみせたり、歯ブラシの柄(え)を砕いたものを巨大なペニスに擦(す)りこんでいよいよ怪異な形態のものに変え、将来にために鍛(きた)えていたという。
昭和46年3月2日、仮釈放になった彼は、36歳になっていた。彼は小肥りで、頭は薄くなりかかっていたが、深い胸毛に覆われた男であった。
大久保はただちにマツダ・ロータリー・クーペを買い込み、ルパシカにベレー帽という画家風の姿となり、凶暴無比のガールハントに乗り出した。適当な若い女性にゆき逢うと車をとめ、モデル依頼その他デタラメの甘言で女性を車に誘いこみ、猛烈に車を走らせて、車中ないし山中で強姦し、絞殺し、車のトランクに用意したシャベルで地中に埋めた。
実に彼は、出所後50余日の間に1万キロ走りまくり、8人の女性を殺害し、妙義山榛名山や、造成中の高崎工業団地などに埋めて何くわぬ顔をしていたのである。しかし警察は、これら行方不明になった女性と大久保清を結びつけることが出来なかった。
その8人目の被害者が乗り捨てた自転車を、処分するために取りに来た大久保を捕えたのは、警察ではなく、被害者の兄であった。大久保は車で逃走したが、そのナンバーから、ついに彼が前橋市内で逮捕されたのは、昭和46年5月14日であった。
これではじめて彼と行方不明の女性たちが結びつけられ、厳しい取調べがはじまったが、大久保は刑事を愚弄し、時に怒り狂い。時に執拗な黙秘をつづけ、時に口から出まかせの嘘をつき、「夏はがんばり通す。全面自供はまず秋だな」などと、ふてぶてしくうそぶいた。
警察では大久保を前橋署から、ひぐらしと寺の鐘の音が聞える松井田署に移して、彼を孤独な環境におくという作戦をとった。その結果、彼が、8人の殺害とその隠匿場所をすべて白状したのは、逮捕後約80日を経た、7月29日のことであった。
12月24日、第3回公判における大久保の陳述。
「……ですから8日にいったように、(被害者の遺族は)引きずりまわして死刑にしろとか、8人分の苦しみを味わわせろ、とか希望されているようですが、できれば遺族自身がアタシを殺したいんでしょう。あるいはみんなの見てる前で、昔の仕置きみたいに首切りしたいんでしょう。江戸時代、戦国時代なら、こいつは人を殺した、即座にパッと決めて、小塚っ原なら小塚っ原、アタシにとってもその方がラクですよ。そうしてもらいたいもんですね。始めからいっているように、自分のやったことは裁きを受ける。それだけですよ」
47年8月には、獄中から叔父に、自分の研究した内燃機関について特許をとりたいからよろしく頼むといった意味の手紙を出している。
48年2月20日、ある週刊誌の記者は、前橋刑務所に収容されている大久保に面会して、いまの心境を訊(き)いた。
「いくつかの思想的な変換をへて、いまは虚無思想に近くなっていますね。立場でいえば共産主義です」と、彼はいった。彼は湯あがりのような健康そのものの顔色をしていた。
「もし死んで生まれ変わるとしたら、何になりたいか」という質問には、「そうね、まったく思いもよらないことだが、しかし考えて見ましょう。考えて見たいな」と彼は答えた。
2日後の2月22日、大久保は死刑を宣告された。彼はうす笑いを浮かべて聴き、宣告が終って席からひき下がるとき、ズボンの膝のあたりを、ほこりでも払うような手つきでパンパンとたたいた。それから傍聴席の遺族たちをちらっと見たが、無感動そのものの眼であった。
彼は控訴しなかった。
その年の春に、彼は獄中から『訣別の章』という本を出版した。彼はかねてから知人に、死後自分の骨と灰は長野県の梓川に流してもらいたいという手紙を書いていたが、その『訣別の章』の中の詩にいわく。
「父母よ! 私の骨と灰は
 あなたがたに お願いしました
 その梓川の清き流れに
 私の全部を託して、長い旅に出ます
 そして何日かかるかわからねど
 きっと ナホトカの港までゆくでしょう」
昭和51年1月22日午前9時過ぎ、大久保が収容されていた東京拘置所の独房の幕がひらいた。氷点下3.9度というその冬一番の寒さの中を、彼は死形場にひかれていった。
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彼は最後まで悔いず、無明(むみょう)の人生を生きて、無明の世界へ墜(お)ちていった。

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