じじぃの「人の死にざま_640_森・恒夫」

森恒夫 - あのひと検索 SPYSEE
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asamasansoujiken あさま山荘事件 動画 YouTube
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実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」予告編 動画 YouTube
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森恒夫 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
森恒夫は、連合赤軍中央委員会委員長。
【経歴】
高校は大阪府立北野高校出身。高校時代は剣道部に所属した。
大阪市立大学国語学科在学中に学生運動に飛び込む。当初は構造改革派のフロントに所属していたが、後に共産主義者同盟関西派の田宮高麿と出会い、以降田宮の忠臣になった。
1969年から1970年にかけて、赤軍派幹部を含む活動家が逮捕されあるいは海外の「国際根拠地」に移動すると、三里塚闘争で黙々と拠点作りをしていた森恒夫の名を挙げられ、塩見孝也により森は政治局員に昇進。その後、塩見孝也や高原浩之が逮捕されると国内赤軍派の獄外メンバーの事実上のリーダーとなり、M作戦(金融機関強盗)などを指揮した。1971年より京浜安保共闘との連携を指導し、やがて統一組織連合赤軍を結成した。
山岳アジトの軍事訓練に永田洋子率いる革命左派出身のメンバーたちが水筒を持参しなかったことを批判。赤軍派が主導権を握ることに成功し、連合赤軍最高幹部となる。その後も山岳ベースを転々とする中で、「総括」と称する暴力行為によって、永田洋子と二人で独裁体制を固め、12人の同志を殺害する山岳ベース事件を指揮した。1972年2月17日、永田洋子とともに一度下山した後活動資金を持ってキャンプに戻ろうとしたところを警察に発見され、ナイフを振りかざして警官隊の群れの中に突入し、警官を刺したが制圧され、揃って逮捕された。
1973年元日、拘置所の独房で首吊り自殺しているところを発見された。発見時まだ心臓はかすかに動いており、ただちに蘇生措置が講じられたが、心臓は間もなく停止、死亡した。28歳。塩見孝也と坂東國男宛に遺書が残されており、発見された遺書には「自己の責任の重さに絶望…自らに死刑を下す」と綴られていた。
あさま山荘事件
あさま山荘事件または浅間山荘事件は、1972年2月19日に始まる、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「あさま山荘」において連合赤軍が起こした事件である。
2月19日の正午ごろ、連合赤軍のメンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人のさつき荘に侵入。台所などにあった食料を食べて休息していたが、捜索中の長野県警機動隊一個分隊が近づいてきたことを察知し発砲した。機動隊側もこれに応戦。発砲した後、『連合赤軍 少年A』によれば、加藤倫教が坂口國男に対し、警官を包囲しパトカーを奪って逃走することを提案したが、坂口國男は何も答えなかったという。15時20分ごろ、連合赤軍のメンバーは銃を乱射しながら包囲を突破し、さつき荘を脱出。さつき荘の近所にあったあさま山荘に逃げ込み、管理人の妻を人質として立てこもった。当初、坂口は管理人の妻を人質として、警察に連合赤軍最高幹部の森恒夫永田洋子の釈放と、あさま山荘のメンバーの逃走を保障させようと計画していた。
作戦開始から7時間半後の午後5時半から、放水によって犯人が立てこもる部屋の壁を破壊する作戦が取られ、午後6時10分、九機隊長・大久保伊勢男警視から一斉突入の命令が下り、数分の後、犯人全員検挙、人質無事救出となった。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
森恒夫(もりつねお) (1944-1973) 29歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和46年、いわゆる連合赤軍を「1にも銃、2にも銃、銃で武装した人民の軍だけが革命を起せる」という、武装中心の過激派集団として再編制した森は、警察のアパート・ローラー作戦によって都市を追われ、群馬県を中心に山岳アジトを作って転々としたが、その過程で総括と称して、赤軍派のメンバー14人を次々にリンチ殺害し、47年2月17日、同志永田洋子とともに妙義山アジトで逮捕された。
東京小菅拘置所に収容された彼は、昭和47年7月20日付で自己批判書をこう書いた。
「……私自身がどうして、あのときああいう風な行動したんだろう、としばしば思い返さざるを得ない様(よう)な一種の“狂気”だと思っている。(中略)考えてみれば、革命にとって狂気は多かれ少なかれ必要な事であり、その意味では狂気ではない。しかし、実際には、それらが革命にとって必要な精神の領域を超えて狂気として働いていたのである。(中略)私は自分が狂気の世界にいたことは事実だと思う」
「私は革命の利益から考えて、有罪であり、その罪は死刑である、ということである。私が、亡き同志、他のメンバーに対して言った『革命家たるものは革命の利益に反する事をした場合、自らの死をもって償わなければならない……』ということを文字通り守らなければならないということである」
昭和48年1月1日の昼過ぎ、10分から15分毎の巡回監視のすきを盗み、彼は独房ののぞき窓の鉄格子にタオルをかけて縊死(いし)した。窓の下端は床から91センチしかないので、両足くびをメリヤスのシャツでくくって、ドアに背でもたれかかり、下半身を床にずらしていって、身体をくの字なりの曲げて死んでいた。
同志の永田洋子は同じ拘置所でこの報を聞いて、「森さんはずるい、卑怯だ、自分だけ死んで」と叫んだという。
3日午後2時、解剖を終えた森の屍体は、黒塗り大型ワゴンで葛飾四ツ木葬祭場に運ばれたが、森の死因に疑惑を抱いた「日本赤色救援会」のメンバーたちが待ち受けていて、交渉の結果、彼らの「通夜」の要求が通って、屍体は駒込の中央聖書協会に運ばれ、午後6時半、棺がひらかれた。
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救援会の医師の検屍でも、森の死因は縊死以外の何ものでもないことが確かめられた。

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