じじぃの「放射線・原子力・へまの大叙事詩!科学は錯誤の中から生まれる」

Playground Radiation in Kashiwa Japan June 20, 2011 動画 YouTube
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放射線の種類 画像
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放射線 Google 検索
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放射性物質 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
放射性物質とは、放射能を持つ物質の総称で、ウラン、プルトニウム、トリウムのような核燃料物質、放射性元素もしくは放射性同位体中性子を吸収又は核反応を起こして生成された放射化物質を指す。
原子炉で核燃料物質が核分裂して生成された物質を核分裂生成物、原子炉及び設備の鉄骨や水が中性子を吸収して生成された物質を「核燃料物質によって汚染された物質」、濃縮等の製錬によって核燃料物質となる原料を核原料物質という。
放射線療法などで使用する放射線を生み出す放射性物質を、放射線源という。
原子力施設や放射線利用施設などで発生する放射性物質を含む廃棄物を、放射性廃棄物という。
放射線被曝】
放射性物質が発見されたときには、放射線被曝が人体にどのような損傷を与えるかが知られていなかったために、キュリー夫妻のような初期の研究者は放射線障害に苦しみ白血病になった。
放射線のうち、アルファ線ベータ線に関しては特別な技術を用いなくても容易に遮蔽することができるが、ガンマ線X線中性子線は物質を透過する能力が高いため、できるだけ生態系に影響を与えない配慮が求められている。その具体的な方法は、放射線が十分に減衰するだけの間隔と遮蔽を取ることである。
放射性物質を体内に取り込んでしまった場合には間隔と遮蔽を取ることが不可能なので、内部被曝はすべての放射線が影響を及ぼす。特にアルファ線放射線荷重係数が大きく人体への影響も甚大である。

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『われ思う、故に、われ間違う―錯誤と創造性』 ジャン‐ピエール ランタン/著、丸岡高弘 /翻訳 産業図書 1996年発行
X線放射線原子力、へまの大叙事詩 (一部抜粋しています)
20世紀の最大の科学的・技術的進歩と考えられているX線から核融合にいたる一連の発見がいかに信じられないような失策、偶然、誤解、不手際の連続に支えられているかを見てみよう。
この一連の連鎖反応の発端となった発見、X線の発見はセランディピテの典型的なケースである。すべてがひとつの意外な発光現象から始まった。1895年、ヴィルヘルム・レントゲンが、他の多くの人々と同じように、「陰極線」の研究を行なっていた。20年ほど前から物理学者たちはこの現象に首をひねっていた。それは真空にした管に放電したとき生じるもので管のガラスやある種の金属でできたスクリーンを発光させるという特質をもっていた。実際は、陰極線は電子の流れなのだが、まだ電子は発見されていなかった……。ある日、レントゲンは真空管を黒い厚紙で巻き、研究室を真っ暗にしてみた。すると驚いたことに、放電したとき、1メートルも離れたスクリーンが「燃えるように光った」のが観測された。つまりこれは新しいタイプの光線なのである。それは長い距離をおいて作用するのみならず、紙や厚紙や木やさらにはある種の金属まだも軽々と突き抜ける、この光線はX線と名づけられた。ほとんど正体がわからなかったからである。
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手探り状態や、間違った道に入り込んでしまうことを繰返しながら、何年か後、こうした放射線全体についてその本当の性質が最終的に明らかにばる。X線は光やラジオ波と同様、電磁波だが、周波数が非常に高いものである。ウラニウムから発する線については、3種類のものがある。X線と同じ種類だが、それより透過性の高いガンマ線、電子の流れであるベータ線、そしてアルファ線である。アルファ線は長いあいだもっとも正体が不明だったが、電荷をもったヘリウムの原子核であることがわかった。放射性物質の操作で人体に被害がでることも徐々にわかってきた。しかしこの点について初期の研究者が誤りをおこすことはほとんど避けがたかった。1900年頃、キュリー夫妻は原因不明の病気に苦しむようになる。ピエールは病気の進行を最後までたどることもなく、1906年に交通事故で死んでしまう。ベクレルはキュリーからもらったラジウムの小さな標本をチョッキのポケットに入れていたために、ひどいやけどをおってしまう。マリー・キュリーは1934年、67歳で白血病で死ぬ。
この物語は20世紀におけるもっとも重要な科学的冒険のひとつにつながっていく。それは、一方では、物質のもっとも内奥の構成の理論的理解へ、そして他方では、原子爆弾から原子力発電所にいたる核エネルギーの制御へと結びつく。しかしそれはまた、研究室における失策や不正確な解釈やとんでもない理論や誤解のオンパレードでもある。あまりに複雑で読者がわけがわからなく恐れがあるので、詳細を語るのはやめにしよう。しかし、ひつとだけ中でも重要なエピソードには言及しておこう。ナチス・ドイツファシスト体制のイタリアがアメリカの研究者より先に原子爆弾の製造に成功していたら、世界の様相は一変してしまっていただろう。幸にも、「錯誤」がわれわれを守ってくれた……。
1933年のイレーヌ・キュリーとフレデリック・ジョリオによる人工放射能の発見以来、多くの研究グループがウラニウムやそれと同タイプの元素に中性子の束を衝突させて、その反応を研究していた。そうした衝突をおこしたとき、特徴づけがきわめて困難な奇妙な物質が出現することが観察された。それは新しい元素なのだろうか、それとも同位元素、つまり既知の元素の変種で、中性子の数が違うだけなのだろうか。物理学者たちは何年も足踏みする。いずれにせよ、彼らにもひとつ確実に思えることがあった。それは観察された元素はもっと重い(つまり陽子や中性子や電子を最大数含んでいる)元素のひとつ、ウラニウムに非常に似た物質であるに違いない、ということである。だから、もし「変換」(新元素の創造)がおこっているとしても、それはほんの多数の粒子だけが付け加わった地減少したりした結果に違いない。こう考えたので、実験が他の事実を示している場合、彼らはそれを分析の誤りや検出器の故障のせいにした。彼らは間違っていたのだ。しかし、驚嘆すべき発見のすぐそばまで行きながら、それを果たせなかった者のひとり、物理学者エミリオ・セグレが後に述べているように、「人は予期しているものしか見えない」のである。
1838年、ベルリンで、オットー・ハンとフリッツ・シュトラスマンが、ウラニウム中性子衝突させてえられたものの中にずっと軽い元素であるバリウムの痕跡があるのを見つけた。それは当時の理論では説明がつかない、唖然とするような事実であった。ハンの手紙でそのことを知らされたただひとりの人物だけがこの実験を正確に解釈することに成功した。それは彼らの昔の同僚であったリーゼ・マイトナーである。彼女はユダヤ人で、ストックホルムに亡命してきたばかりだった。彼女はハンとシュトラスマンが核分裂を実現したことを理解した。彼らはウラニウムの核をふたつの断片に分裂させたのだ。そして、その断片自体、連鎖反応で、新しい核分裂を引きおこすが、その連鎖反応を爆発的に起こさせることもできるし、また制御することも可能である。こうして原子爆弾原子力発電への道が開かれる。もちろん彼女は自分の結論をベルリンに伝えることはせず、甥のオットー・フリッシュの仲介で、その頃アメリカに亡命したばかりの原子物理学者、デンマークニールス・ボーアやイタリア人エンリコ・フェルミに知らせる。そしてすぐさま極秘の研究が開始される。その後の話は、良きにつけ悪しきにつけ、科学の歴史というより大文字の「歴史」に属する。

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どうでもいい、じじぃの日記。
『われ思う、故に、われ間違う―錯誤と創造性』という本を見ていたら、「X線放射線原子力、へまの大叙事詩」というのがあった。
「へま」から原子力発電が生まれたのか。それだったら「へま」で原子力発電事故があってもおかしくないということか?
「すべてがひとつの意外な発光現象から始まった」
2008年にノーベル化学賞を受賞した下村脩さんはアメリカに渡って、ほとんどクラゲ捕りの毎日だった。奥さんまで狩り出されて80万匹のクラゲを集めたという。
そして、学術論文に書いた記事「光るクラゲ」のおまけとして書いたGFP緑色蛍光タンパク質)がノーベル化学賞につながった。
こちらの「発光現象」は事故にはつながりそうもない。