じじぃの「人の死にざま_659_E・ブロンテ」

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エミリー・ブロンテ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
エミリー・ジェーン・ブロンテは、イギリスの小説家。ヨークシャーのソーントンに牧師の子として生まれた。
ブロンテ三姉妹の2番目で、唯一の長編小説『嵐が丘』を書いた。この作品は当初酷評されたが、没後に評価が高まった。ほかに三姉妹の詩を収めた『詩集』が評価されている。
【生涯】
1818年7月30日に、イギリスのヨークシャーのソーントンに、牧師パトリック・ブロンテの四女として生まれる。姉がマリア、エリザベス、シャーロット、妹がアン。1820年、一家はハワースに移り住み、翌年母マライアを亡くす。1824年、姉3人がランカシャーのカウアン・ブリッジ校に入ったため、11月の終わりにエミリーもここに入学した。だがこの学校は非常に不衛生で、マリアは翌年5月、このため肺結核で死亡し、さらに1ヶ月後の6月にはエリザベスもやはり肺結核で後を追うように亡くなる。このため、シャーロットとエミリーは緊急に帰宅することになる。
1844年の秋に、シャーロットはエミリーとアンの詩稿を発見し、これをのちに『カラー、エリス、アクトン・ベルの詩集』(1846年)として、自費出版した。当時の女性作家への偏見から、執筆時エミリーは「エリス・ベル」という男性風の筆名を使用している。これがまったく売れずに終わると、シャーロットの説得を受けて小説「嵐が丘」を執筆する。出版社に引き取ってはもらえたものの、出版には1年ほどかかり、その間は父の看病をしたり詩を書いたりした。1847年、『嵐が丘』はアンの『アグネス・グレー』とともに1847年に刊行されたが、評価は厳しく、それより姉の『ジェーン・エア』のほうがよく注目された。『嵐が丘』の評価が高まったのは没後のことである。
1848年9月、兄パトリック・ブロンウェルが過度の飲酒がもとで急死。その葬儀の際に風邪をひき、これがもとで結核を患った。最後まで医者を拒み続け、12月19日に30歳の若さで死去した。
嵐が丘』は、エミリー・ブロンテの唯一の長編小説。1847年に男性名エリス・ベルの筆名で発表。
イギリスのヨークシャーの荒野に立つ荒れ果てた館「嵐が丘」を舞台に、復讐に燃えるヒースクリフの愛を描いた作品。発表当時は不評であったが、20世紀に入ってから評価が高まった。

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嵐が丘』 あらすじ
イギリスの片田舎でヒースの生える「嵐が丘」の旧家アーンショウ家の当主が、商用の帰りに身寄りのない孤児の少年を家に連れて帰る。ヒースクリフと名づけられたその子は、アーンショウ家の娘キャスリンと仲良くなるが、その兄ヒンドリや、周囲の人々からは雇い人として差別的な待遇を受ける。ヒースクリフにとって、ヒンドリのほかに、アーンショウ家と並ぶ名家のリントン家の人々も憎しみの対象であった。
年頃になり、キャスリンがリントン家の息子エドガの求婚を受け入れた日、ヒースクリフは姿を消す。キャスリンとエドガが結婚したあと、ヒースクリフは裕福になって「嵐が丘」に戻ってくる。ヒースクリフへの愛憎で錯乱したキャスリンは夫と娘を残して死ぬ。ヒースクリフはヒンドリを破滅させ、その復讐は、エドガとキャスリンの娘キャシ、ヒンドリの息子ヘヤトンにも及ぼうとする。キャシはヒースクリフの息子リントンと結婚するが、リントンは間もなく死に、リントン家の財産はヒースクリフのものになってしまう。キャシはヒースクリフのもとに囚われる。
しかし、最後にはキャシはヘヤトンと愛し合うようになり、陰うつな嵐が丘に明るい光をもたらす。ヒースクリフは長い復讐とキャスリンへの消えない愛憎に疲れ果てるように死んで行く。
http://www7.big.or.jp/~ynisihir/html/Y622_ISABELLA.htm
『VOICE』 6月号 2010年5月10日発売  PHP研究所
おじさんのための名作講座 『嵐が丘』とブロンデ三姉妹 堀井憲一郎 (一部抜粋しています)
世界文学全集がえらばれるときに、必ず入る作品というのがある。ゲーテトルストイシェイクスピアなどの諸作品が人気であるが、女性作家で入る作品はといえば、何と言ってもまず『嵐が丘』、ついで『ジェーン・エア』だ。日本でもっとも紹介されている海外女性作家は『嵐が丘』のエミリー・ブロンテと、『ジェーン・エア』のシャーロット・ブロンテということになる。こと、昭和の日本においてはそうだったということだ。大正時代もそうですね。
たまに知らない人もいるが、エミリー・ブロンテと、シャーロット・ブロンテというのは姉妹である。知らないのはただ興味がないからですね。あなたのことですよ。それくらいの小説は知ってるよおって人が、かえって怪しいですね。姉妹です。
もちろん研究者には興味深い姉妹であるから、ブロンテ姉妹についての研究書は枚挙にいとまがない。それに、この姉妹の年譜を見ていると、少し心打たれてしまいのだ。
シャーロットが姉、エミリーが妹です。しかもその下にアンってのがいて、彼女も小説を書いている。しかも近年になってアンの評価が高まっているので、ときとして「ブロンテ三姉妹」として紹介されることも多くなってきている。なんか、時代劇ファンに水戸黄門にお供しているのは佐々木助三郎渥美格之進だよと得意げに説明してる気分になってくるが、まあ仕方がない。由美かおるがいよいよ出演最後だそうですよ。どうでもいいですね。
姉妹はまだいた。長女がマリア、次女がエリザベス、三女がシャーロットである。それぞれ一つ違い。シャーロットのすぐ下に長男のブランウェルがいて、四女エミリー、五女アンとなる。
アンを産んだ翌年にこの6人の子どもに母は死んだ。その4年後、長女のマリアと次女エリザベスが相次いで結核で死んだ。マリアが12歳、エリザベスが10歳である。入学した学校の生活環境が悪かったから、とされている。西暦で言うと1825年、日本では文政年間である。
姉妹はまず詩を書き、詩集を出し、それから小説を書いた。これが本来の小説家になってゆく筋ですね。
シャーロットが30歳(になる年)で処女作『教授』を書くが、出版を断られる。続いて『ジェーン・エア』を書く。ほぼ同時にエミリーが『嵐が丘』を書き、アンが『アグネス・グレイ』を書いた。この3冊はほぼ同時に刊行されている。シャーロットの『ジェーン・エア』は文壇の大御所ウイリアムサッカレーに絶賛され、評判になった。このために、当時の出版社が、『ジェーン・エア』の作者の作品だとして、妹たちの小説を売り出そうとしたのだ。
この三作品が出版された翌年に、ブランウェルが死ぬ。シャーロットの弟、エミリーとアンの兄である。絵を描いたり詩を書いたり物語を書いたりするもモノにならず、飲酒や麻薬に逃避していたと言われる長男は、伝記を見る限り、ぼろぼろになって死んだ。エミリーはその葬式のおり風邪を引いたのがもとで、結核を患い、しかし医者の診察も拒み家に籠もり、兄の死後3ヵ月でなくなった。享年30である。アンもその半年後になくなった。28歳。シャーロットだけ生き残るが、でも6年後に38歳で亡くなっている。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
エミリー・ブロンテ (1818-1848) 30歳で死亡。 (一部抜粋しています)
嵐が丘』を書いた翌年の9月、弟が死んでその葬式に墓地にいったエミリー・ブロンテは、そこで風邪をひき、もともと肺結核を患っていたのが悪化した。
しかし彼女は、医者に診てもらうことも、身のまわりの世話をひとにしてもらうことも拒否した。
姉のシャーロット・ブロンテが友人に書いている。
「エミリーは急速に衰えてゆきます。私たちから飛び去ろうとしています。しかも、肉体の滅びの中にあっても、彼女は、私たちがかって知らなかったほど強くなってゆきます。男性より強く、幼児よりも単純に、彼女の性格は毅然としてひとり立っています」
エミリー・ブロンテは朝の7時に起き、夜の10時まで床につこうとはしなかった。身のまわりのことはむろん、犬の世話までひとにまかせず、シャーロットがロンドンの名医からとりよせた薬も手にとろうとはしなかった。
12月19日の朝、起きるには起きたが、身体がふらつき、眼が異様にひかっていた。櫛(くし)を落としたが、拾いあげる力もなかった。しかし彼女は、息を切らしながら階下まで下りて来た。彼女が苦痛をもらさず平然としているので、まさか死期が迫っているとは思わず、シャーロットは野に出て、枯れたヘザの束(たば)をとって来て見せたが、エミリーはもうそれを見わける視力さえ失っていた。
正午ごろ、やっと医者に診てもらうことを承知したが、もう手遅れであった。長椅子に横たわって苦しげにあえぎつづけ、午後2時ごろ、日光から眼をそらし、そのまま息をひきとった。

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エミリー・ブロンテ エミリー・ブロンテ
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