じじぃの「人の死にざま_642_幸田・露」

幸田露伴 - あのひと検索 SPYSEE
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映画 五重塔 予告編 動画 YouTube
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作家別作品リスト:幸田露伴
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五重塔』 幸田露伴
幸田露伴の『五重塔』では、貧しく世間に評価されない職人の十兵衛が、上人を介して五重塔の棟梁として世間を見返す過程が描かれている。資本主義がたち上がりつつあった明治二十年代は、不景気の後に貧富の格差が拡大する時代であった。露伴は「順々競争の世の中」で徳の高い人間が正当に評価されず不遇であると考えている。そういう人間の感情が「高士世に容れざるの恨み」として作品のテーマになっている。露伴は十兵衛に同情する立場に立ち、十兵衛と上人と源太の三人の世界をあるべき人間関係として描いた。ここに露伴が社会を批判的に捉える視点がある。
十兵衛は周囲の人間からのっそりと軽蔑的に扱われているものの、金銭欲を持たず貧しさに耐え実入りの少ない仕事でも手を抜かない。この十兵衛が、いかにして棟梁になるのか、五重塔を建て世に認められる過程で生じる問題にどう対処していくのか、その時にどういう感情を持つのかに、今も残る日本的精神の特徴が描かれている。
http://www.mars.dti.ne.jp/~akaki/gojuu.htm
幸田露伴 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
幸田露伴(1867年8月22日(慶応3年7月23日)-1947年(昭和22年)7月30日)は、日本の小説家。本名は成行(しげゆき)。別号には、蝸牛庵、笹のつゆ、雷音洞主、脱天子など多数。江戸(現東京都)下谷生れ。帝国学士院会員。帝国芸術院会員。第1回文化勲章受章。娘の幸田文も随筆家・小説家。
風流仏』で評価され、『五重塔』『運命』などの文語体作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。擬古典主義の代表的作家で、また漢文学・日本古典や諸宗教にも通じ、多くの随筆や史伝のほか、『芭蕉七部集評釈』などの古典研究などを残した。
【生涯】
1867年8月22日(慶応3年7月23日)、江戸下谷三枚橋横町(現・東京都台東区)に、四男として生を受ける。
1878年明治11年)、東京府第一中学(現・都立日比谷高校)正則科に入学する。尾崎紅葉や上田萬年、狩野亨吉らと同級生であった。
1889年(明治22年)、露伴は「露団々」を起草し、この作品は淡島寒月を介して『都の花』に発表された。これが山田美妙の激賞を受け、さらに『風流佛』(1889年)、谷中天王寺をモデルとする『五重塔』(1893年)などを発表し、作家としての地位を確立する。
1894年(明治27年)、腸チフスにかかり死にかけるが、翌年に結婚、それ以降の数年で『ひげ男』(1896年)『新羽衣物語』(1897年)『椀久物語』(1899年〜1900年)を発表、また当時としては画期的な都市論『一国の首都』(1899年)『水の東京』(1902年)も発表する。
この頃に同世代の尾崎紅葉ととも「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を迎える。「写実主義尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と並び称され明治文学の一時代を築いた露伴は、近代文学の発展を方向づけたとされる。また尾崎紅葉坪内逍遥森鴎外と並んで、「紅露逍鴎時代」と呼ばれることもある。
1937年(昭和12年)4月28日には第1回文化勲章を授与され、帝国芸術院会員となる。1947年(昭和22年)7月30日、戦後移り住んだ千葉県市川市において、満80歳で没。

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文藝春秋 2010年1月号 昭和の肉声 いま蘇る時代の蠢動
昭和12年 屈原の詩は如何なる境遇から生れ出たか 幸田露伴(こうだろはん) (一部抜粋しています)
昭和12年2月11日、文化勲章が制定された。第1回の受賞者は、長岡半太郎、本多光太郎、木村栄、佐佐木信綱、岡田三郎助、藤島武二竹内栖鳳横山大観、そして幸田露伴
露伴はこんな本音も吐露している。
「文学者というものは時の政府を批判し、あらがうことを本来の使命とする。しかるに、その政府から、私は勲章をいただいた。私ももうろくした」
友人たちは祝賀会を開いても出て来てくれないのではないかと、と心配したが、6月28日、東京会館露伴はこう挨拶した。
一体芸術といふものは、世間から優遇され、多くの人に認識され、もてはやされたから立派になるといふものでもない。また世間から冷遇され、認識されぬから成立たぬというものでもない。かく考へまする時、純粋に芸術の上からは勲章を頂戴したといふことについて、方々からも何も申されなくてもよいのでありますし、またお祝をされなくてもよいかとも存ずるのであります。
私に関することは暫くさし措き、又日本の古い時代のことに例をとって申し上げることは憚り多いことでありますから、これを差控へまして、かの隣邦支那に於いての芸術を見渡しませうなら、立派な詩を遺した多くの詩人達は社会から如何やうに取り扱はれましたらうか。中には国家社会から優遇されて立派な詩を遺した者もありませうが、社会から冷遇され虐待された者が、多くは其心の中から出た叫び、それを以って詩を成し、そしてそれが立派な詩となったのであります。詩経以後、詩の祖先のやうな屈原の詩は如何なる境遇から生れ出たか。国家社会から優遇されて出たものではありません。いや、虐待され、圧迫され、圧搾されて迸(ほとばし)り出たものであります。皆ひどい目にあった人々から蘇。李の詩、太史公の大文章、・・・・、後に至っても唐韓、宋蘇、皆あまり幸福の場合に置かれなかったところから立派なものが出て来てゐるのであります。(「文化勲章のこと」『露伴全集』)

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