じじぃの「ミランダ・『カルロス二世』・呪われた肖像画!怖い絵」

NHK出版 生活人新書 「怖い絵」で人間を読む PV 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Uv0lmuwSs-k
カルロス2世 肖像画
http://www.fr-dr.com/paris/archives/090419-Carlos_II.jpg
カルロス2世 Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%82%B92%E4%B8%96&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=eXUBTregL46muAOfh9ykDg&ved=0CCoQsAQ&biw=920&bih=540
「怖い絵」で人間を読む 2010/2〜2010/3 NHK
【語り手】中野京子
名画は語る。
人間って、本当に恐ろしい――
西洋名画をその絵が生まれた時代の眼で見ると、思いもよらない「恐怖」の感情が芽生えてくる。名画から人間の本性を読み解く。
https://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=C5010101&webCode=61895362010
ファン・カレーニョ・デ・ミラン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ファン・カレーニョ・デ・ミランダ(1614年3月25日-1684年10月3日)はバロック期に活躍したスペインの画家。
スペイン北部のアストゥリアス州で、同名の画家の父親の元に生まれる。1623年、家族でマドリッドに移り、ペドロ・デ・ラス・クレバスやバルトロメ・ロマンといった画家に弟子入りする。1658年、現在マドリッドの王宮で知られる宮殿のフレスコ画制作の助手として雇われる。1671年、セバスティアン・デ・エレーラの死に伴い、宮廷画家に任命される。ミランダは初期には祭壇画なども手がけたが、主にスペイン王室の人々を描いた肖像画家として知られている。

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『怖い絵 2』 中野京子/著 朝日出版社 2008年発行
カレーニョ・デ・ミランダ 作品『カルロス2世』 (一部抜粋しています)
スペイン王家にオーストリアの地が流入したのは、16世紀初頭、王女フアナが(後に「狂女王フアナ」と呼ばれるようになる)、ハプスブルグ皇帝の息子フィリップと結婚し、世継ぎを生んで以来だ。この息子が、神聖ローマ皇帝カール5世とスペイン王カルロス1世を兼ねることとなった(つまり称号をふたつ持った)。彼は生涯を戦(いくさ)に明け暮れ、その代わりスペインを「陽の沈むことなき世界帝国」へと押し上げる。
カルロス1世の退位後、ハプスブルグ家はオーストリア・ハプスブルグとスペイン・ハプスブルグに2分されたが、幸いにして息子フェリペ2世(いとこ婚による)の出来が良かったため、スペインは空前の繁栄を誇ることができた(フェリペ2世はとにかく働き物だったから、スペイン語で「フェリペ2世のように働く」という言いまわしがあるほどだ)。
ただし後継者問題に悩まねばならなかった。死別や離別で4度も結婚したフェリペ2世は、最後に実妹の娘である姪(めい)と結婚してようやく後継ぐの男児(後のフェリペ3世)を授かる。ここから王家は異様に血を濃くしてゆくわけで、系図を見ると錯綜(さくそう)する婚姻線に絶句する他ない。そもそも妻のなったこの姪自体、両親がいとこ婚によって産んだ娘なのだ。
フェリペ3世(カルロス2世の祖父にあたる)も新しい地を入れることなく、いとこの娘と結婚する。その息子フェリペ4世はというと、最初はブルボン家の、アンリ4世の娘を妻にした。これで無事世継ぎができれば問題は少なかったと思われるが、次々8人の子が生まれたのに、次々死んで、けっきょく女児ひとりしか残らなかった(この娘は太陽王ルイ14世へ嫁ぐ)。しかも王妃は分娩がもとで命を落とした。
万事休す。45歳になっていたフェリペ4世は焦った。男児がいない。再婚しなくては! しかしヨーロッパ中見まわしても、ちょうどいい相手はいない。あたらスペインが大国であるばかりに、プリンセスなら誰でもいいというわけにはゆかず、格下すぎる王室や非カソリック国とか姻戚(いんせき)関係を結べないという事情がある。しかも陽の沈まないはずだった帝国の財政は、凡庸(ぼんよう)だった父3世、そして「無能王」とあだ名される自分のせいで(本人は否定するだろが)悪化の一途だったから、分割しなくてもすむよう、やはり血筋で固めるべきかもしれない。というわけで、彼は祖父フェリペ2世と同じ選択をする。実妹の娘と結婚したのだ。
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父親は激しく落胆した。3つになってもまだ乳を飲み、立つことすらできず、心身ともに脆弱で知能も低く、見た目もひどく悪い我が子を恥じ、なるべく人の目に触れぬよう配慮し、どうしても人前に出すときにはベールをかぶせることすらあった。そしてひたすら呪いを解こうと、子どもの周りには乳母の他におおぜいの医者、占星術師、祈梼師を侍(はべ)らせた。祈梼の効果はずいぶんあったといえるだろう。今にも死ぬかと思われながらその都度どうにか持ち直し、誰ひとり想像もしなかった、39歳まで生きのびることができたのだから。
だがそれはまだ先の話だ。フェリペ4世は息子の将来、自国の未来を憂えつつ、60歳で世を去った。自動的に4歳のこの子がカルロス2世として即位、母親が摂政となる。いや、正確には暗愚(あんぐ)の大臣たちが国の舵取りをした。母は政治に無関心、息子はそもそも10歳になっても読み書きすらできなかったのだから。
このころベラスケスはすでにいない。彼に匹敵するスペインの巨匠は1世紀後のゴヤを待たなければならないが、カレーニョ・デ・ミランダも宮廷画家としてすばらしい仕事をしている。
13、4歳のカルロス2世を描いたこの肖像画には、明らかに先代のベラスケス様式が見てとれる。ただしベラスケスは対象をことさら粉飾しはしなかったが、カレーニョの方は宮廷風の慇懃(いんぎん)な理想化がある。とりわけ本作がそうだという証拠には、他の画家たち(この時期、宮廷画家は15人もいた)によるいくつもの肖像やスケッチ、また同時代人がカルロス2世の外見について書いた文献が挙げられる。宮廷肖像画の宿命として、2、3割アップは目をつぶる範囲内であろうが、どうやらこの絵はそれをはるかに超えたものだったらしい。
とはいえ、少年王がハプスブルグ家代々の特徴を受け継いでいることは、控えめながらも表現されている。父も祖父も曽祖父も高祖父も持っていた、突き出た下顎(あご)と分厚い下唇(マリー・アントワネットの受け口にも微かに継承されている)がそれだ。その上カルロス2世は細い弓なりの顔、長く垂(た)れた鼻、全く噛み合わない歯(終始、よだれを流していたという)、ほとんど太陽光を浴びなかったせいで病的に蒼(あお)白い肌――たとえ唇に紅をさしても、幽鬼の如く暗がりにぼぅっと白く浮かび上がるその姿に、言いしれぬ戦慄(せんりつ)を覚えない者はいないだろう。髪だけが若々しい美しさに波打っている。
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スペイン宮廷は、血族結婚による弊害に全く気づいていなかったのだろうか? 遺伝病についての知識がそれほどまでに欠如していたのだろうか? そんなことはない。薄々感じていながら、それでもなお、新しい下賤(げせん)の血よりは古い高貴な血を選んだのだ、純血を守ろうとしたのだ。
カルロス2世は呪われた肖像画を残すために、生まれてきたのかもしれない。

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どうでもいい、じじぃの日記。
去年、NHK 「『怖い絵』で人間を読む」を観た。
1枚の弱々しい少年を描いた絵があった。
この少年のどこが怖いのだろうか。
先日、図書館から、中野京子著 『怖い絵 2』を借りてきた。NHKでやっていた、少年の絵のことが書かれている。
ヨーロッパの大貴族でスペイン国王などを務めていたハプスブルク家は血縁が近いもの同士で結婚を行っていた。そして近親相姦を繰返して生まれた子どもが「カルロス2世」だ。
「スペイン宮廷は、血族結婚による弊害に全く気づいていなかったのだろうか? 遺伝病についての知識がそれほどまでに欠如していたのだろうか? そんなことはない。薄々感じていながら、それでもなお、新しい下賤(げせん)の血よりは古い高貴な血を選んだのだ、純血を守ろうとしたのだ」
6月17日、日本テレビ 『金曜スーパープイライム』で「ネプ&イモトの世界番付2」を観た。
その中で「 ファーストキスの早い国ランキング」というのがあって、韓国の青年がこんなことを言っていた。
「韓国では金と言う名字が4人に1人いて、同じ金同士は結婚できない」
えー。ホントかよ。
横溝正史の作品には近親相姦を扱ったものがけっこうある。
悪魔が来たりて笛を吹く』は近親相姦の結果、生まれた子どもが悪魔へと変貌させていくというものだった。
島崎藤村は彼の兄の娘(姪)のこま子と通じた。
エジプトの女王、クレオパトラは弟と結婚した後、さらにその下の弟とも結婚している。
男と女の間で、近親相姦は珍しくもない。
スペインの男系のハプスブルク家がカルロス2世の後途絶えたというのは、ただ運が悪かっただけのことなのかもしれない。
人類、みな兄弟。白も、黒も、黄色も、仲良く交り合ったらいいんじゃ、ありませんか。スケベ、じじぃより。