じじぃの「人の死にざま_636_野口・遵」

野口遵 - あのひと検索 SPYSEE
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「わが会社に非あり〜水俣病と向き合った医師の葛藤〜」(1) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=R2fu9xNWJ3g
化学工業の祖 野口 遵 延岡市 Nobeoka City
http://www.city.nobeoka.miyazaki.jp/kanko/greatman/noguchi.html
野口遵 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
野口遵は、日本の実業家。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、旭化成積水化学工業積水ハウス信越化学工業の実質的な創業者でもある。
朝鮮半島進出後の野口遵は政商であった。朝鮮総督府の手厚い庇護の下、鴨緑江水系に赴戦江発電所など大規模な水力発電所をいくつも建設し、咸鏡南道興南(現・咸興市の一部)に巨大なコンビナートを造成した。さらに、日本軍の進出とともに満州海南島にまで進出した。森矗昶、鮎川義介などと共に当時、「財界新人三羽烏」として並び称されていた。
【履歴】
1873年 7月26日 金沢の貧しい士族の家に生まれた。
・1896年 帝国大学工科大学電気工学科(現・東京大学工学部電気工学科)を卒業した。
・1898年 シーメンス東京支社に入った。
1903年 仙台で日本初のカーバイド製造事業を始めた。
1906年 曽木電気を設立し、鹿児島県の大口に曽木水力発電所を開いた(後のチッソ旭化成積水化学積水ハウス信越化学)。
・1923年 宮崎県の延岡で、カザレー法によるアンモニア製造を開始した。カザレー法の実用化として世界初。
・1929年 日本ベンベルグ絹糸(現・旭化成)を設立した。
・1932年 京城府本町(現・ソウル特別市中区明洞)に半島ホテル(現・ロッテホテル)を開いた。
・1940年 京城で脳溢血に倒れ、実業界から引退した。
・1941年 科学振興・朝鮮教育振興のため私財3000万円を投じて、2,500万円で野口研究所を設立、500万円を朝鮮奨学会に寄付した。
・1942年 勲一等瑞宝章を受けた。
・1944年 1月15日 没。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
野口遵(のぐちしたがう) (1873-1944) 71歳で死亡。 (一部抜粋しています)
日本窒素コンツェルンの総帥。
鴨緑江に水豊ダムを建設し、朝鮮に君臨していた彼は、昭和15年2月、京城のホテルで入浴中、脳溢血で倒れた。
その後静養に専念したが回復はかばかしからず、昭和16年9月、朝鮮から特別列車を仕立てて内地へ帰って来た。そして、伊豆の韮山(にらやま)に療養のための別荘を作れと命じ、それが完成するまで近くの旅館に滞在した。別荘は敷地3000坪、建坪700坪という超特大のもので、時の首相東条でさえ30坪の家を作るのにとやかくいわれた戦争のまっただ中に、突貫工事で建てさせた。それでも半年かかった。
身体不自由のため、トイレにも両側から2人の看護婦に抱きかかえられてはいらなければならなかったが、そのため入口1間(けん)の観音開きの便所を作らせ、タイル張りの大浴場に1日2回はいるのに、若い看護婦10人あまりに水着をつけさせ、胴上げのようにして入浴の世話をさせた。しかし18年ごろから病状は悪化、19年1月15日午前6時30分に彼は死んだ。
彼の作りあげたコンツェルンの1工場「新日窒水俣工場」が戦後いわゆる水俣病という一大公害事件をひき起す。

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野口遵 Google 検索
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