じじぃの「人の死にざま_616_ワシントン」

ジョージ・ワシントン - あのひと検索 SPYSEE
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George Washington: First American President 動画 YouTube
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米原子力空母ジョージ・ワシントン 動画 YouTube
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ジョージ・ワシントン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ジョージ・ワシントンは、アメリカ合衆国の軍人、政治家、黒人奴隷農場主であり、同国の初代大統領である。
【経歴】
ワシントンはバージニア州ウェストモーランド郡のコロニアル・ビーチ南部にあるポープズ・クリーク・プランテーションで生まれた。
青年期は測量を学び、生まれ育ったバージニアの地形について知悉(ちしつ)するようになった。 1748年には農園主としての経歴を積み始め、またブルーリッジ山脈の西側の土地の測量にも請われて参加した。
1752年2月4日にフリーメイソンに加わった。同年7月にローレンスが死去した。彼は最初、ローレンスのマウントバーノンの農園を借り、最終的には相続した。ローレンスはバージニア民兵隊長を務めており、その死後は4つの地区に分けてそれぞれ隊長が配されることになった。ワシントンはディンウィディの指名でその1つを継承し、少佐となった 。地区隊長としてのワシントンは割り当てられた宿舎に入り、民兵の訓練を行った。
1776年3月17日にドーチェスター高地に大砲を配置しイギリス軍を威嚇、ボストンからの排除に成功した。ウィリアム・ハウ将軍の率いるイギリス陸軍は、カナダのハリファックスへ退却した。イギリスの新聞は大陸会議愛国者に対しては否定的であったが、ワシントンの個性と軍隊指揮官としての質については何度も褒め上げた。 さらにイギリス議会の両陣営共にアメリカ将軍の勇気、忍耐強さおよびその軍隊の繁栄に対する気配りが賞賛に値し、自国の指揮官に求められる美徳の例だと考えた。ワシントンが政治に関与することを拒んだことで、すべて軍事的任務に身を挺(てい)し、党派的抗争を超越している人としての評判を強化した。
アメリカで最初の大統領選挙は1789年2月4日に行われた。選挙人を選ぶ方法の決定は各州に任された。13州のうち10州だけが選挙人団の投票を行った。またそれらの10州のうち、5州だけが大統領選出のための一般投票を行った。選挙人投票で100%の票を得た大統領は、現在までワシントンだけであり、今後もこの記録は破られないと思われる。そして、同年4月30日ニューヨークのフェデラル・ホールでアメリカ合衆国憲法に基づく大統領の就任宣誓式を行った。
ワシントンは有能な管理者であることを証明した。才能あり性格もよい優秀な代議士かつ判断者として、通常の閣議では最終結論を出す前に議論させた。所定の業務を行う時は「体系立て、秩序正しく、活力があり、他人の意見に配慮したが決断力があり、共通の目標を意図し、そのために首尾一貫した行動をとった」
ワシントンは大統領職に2期目は気乗りがしていなかった。3期目の出馬は拒否し、大統領職は2期までという慣習的政策を作った。これは後にアメリカ合衆国憲法修正第22条によって法制化された。
1797年3月に大統領職を辞任した後、ワシントンは解放感を抱いてマウントヴァーノンに帰った。その年は多くの時間を農園で過ごし、2,250平方フィート(75フィートx30フィート、200m2)の蒸留所を造った。
1798年にフランスとの戦争の脅威に晒されていたアメリカ陸軍中将として最高司令官に再び指名された。ワシントンの任命は戦争が切迫していたフランスに対する警告であった。しかしながら同年内に彼は急性喉頭炎に罹患したため現役勤務することはできなかった。
1799年12月12日、ワシントンは馬に乗って雪と後には霰と凍えるような雨の中を数時間見回りに過ごした。その夜は濡れた衣服を着替えもせずに食卓に座った。翌朝目覚めると悪寒と熱があった。化膿性扁桃腺炎という咽喉感染症に罹ったのである。これが急性の喉頭炎と肺炎に変わり、ワシントンは12月14日、自宅で67歳で死んだ。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ワシントン (1732-1799) 67歳で死亡。(一部抜粋しています)
独立戦争の総司令官としてイギリスと戦いぬき、8年間の悪戦苦闘の末ついにアメリカを独立させ、初代大統領となったジョージ・ワシントンは、3選をみずから辞退したあと、故郷マウント・ヴァーノンの荘園に隠栖(いんせい)したが、その後も難局に際してなんどもかつぎ出され、生涯ついに隠退することが許されなかった。
最後の年、やっと一切の公職を退き、マウント・ヴァーノンに住むことが出来たが、12月12日、習慣としていた乗馬の散策中みぞれに逢い、風邪をひいた。13日の夜半、突然悪寒(おかん)と呼吸困難に襲われた。医者が呼ばれ、当時万能の療法のごとくに信じられていた刺絡(しらく)をこころみたが、病状はますます悪化するばかりであった。
14日午後10時ごろ、ワシントンは秘書のリアに、「葬式はていねいにたのむよ。しかし私が死んでも、3日の間は墓に入れないでくれ。いいかね?」と何度も念をおした。
そのあと自分で自分の脈をとってみたが、そのうちに顔色が変わり、溜息ひとつつかず、しずかに絶命した。
ポーが『早過ぎる埋葬』を書く50年近く前、同じアメリカの初代大統領は「早過ぎる埋葬」を怖れつつこの世を去ったのである。

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