じじぃの「人の死にざま_611_中野・好」

中野好夫 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%A5%BD%E5%A4%AB/54009/
中野好夫アラビアのロレンス』雑感
http://homepage3.nifty.com/yagitani/tpc_ja23.htm
読書のおと(エドワード・ギボン著作のページ)
http://www.asahi-net.or.jp/~wf3r-sg/ntz2gibbon.html
中野好夫 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
中野好夫は日本の英文学者、評論家。英米文学翻訳者の泰斗であり、訳文の闊達さでも知られている。
【来歴・人物】
愛媛県松山市生まれ。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)在学中、スパルタ教育に反発して退学。のち第三高等学校を経て、東京帝国大学文学部英文学科で斎藤勇に師事。1926年(大正15年)に卒業後、新聞社入社に失敗して千葉県の私立成田中学校に英語教師として赴任。
1945年(昭和20年)、敗戦を機に社会評論の分野に進出。1948年(昭和23年)から東京大学教授。この時期、太宰治の短篇「父」を「まことに面白く読めたが、翌る朝になったら何も残らぬ」と評したため、太宰から連載評論『如是我聞』の中で「貪婪、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人」とやり返されたこともある。これに対して中野は、太宰の死後、『文藝』1948年(昭和23年)8月号の文芸時評志賀直哉太宰治」の中で「場所もあろうに、夫人の家の鼻の先から他の女と抱き合って浮び上るなどもはや醜態の極である」「太宰の生き方の如きはおよそよき社会を自から破壊する底の反社会エゴイズムにほかならない」と指弾した。
1949年(昭和24年)、平和問題懇談会に参加し、全面講和を主張。1953年(昭和28年)、「大学教授では食っていけない」との理由で退官し、『平和』誌の編集長となる(1955年まで)。朝鮮戦争による好況を背景に、1956年(昭和31年)、『文藝春秋』2月号に発表した「もはや戦後ではない」という評論の題名は翌年の経済白書に取り上げられ、流行語となった。
1958年(昭和33年)から1976年(昭和51年)まで憲法問題研究会に参加。護憲、反安保、反核沖縄返還、都政刷新を主張。沖縄問題への取り組みとして沖縄資料センターを設立、のち法政大学沖縄文化研究所に引き継がれた。1985年(昭和60年)に肝臓がんにより亡くなった。
1976年からエドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』完訳を目指し、刊行開始したが、シリーズ全体の半ば(5巻目)で病没。元同僚の朱牟田夏雄が引継ぎ、次に長男中野好之が訳業を続け、1993年(平成5年)に全11巻で完結した。
【著書・翻訳】
アラビアのロレンス 岩波新書 1940 改訂版1963
・蘆花徳富健次郎 筑摩書房.全3巻 1972-74
バイロン・手紙と日記 小川和夫共訳 青木書店、1938 のち角川文庫
・雨 サマセット・モーム 岩波文庫 1940 のち「雨・赤毛新潮文庫
ジョナサン・スウィフト ガリヴァ旅行記 弘文堂書房 1940、新潮文庫 1952 のち改版
・月と六ペンス サマセット・モーム 中央公論社、1940、新潮文庫 1959
ヴェニスの商人 シェイクスピア選集.筑摩書房 1948 のち岩波文庫
・人間の絆 モーム 三笠書房、1950-52 のち新潮文庫全4巻、改版全2巻

                                                  • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
中野好夫 (1903-1985) 82歳で死亡。 (一部抜粋しています)
シェイクスピアモーム、スウィフトの名訳や『蘆花徳冨健次郎』などの伝記で知られる一方、戦後のいわゆる「進歩的文化人」の代表と目され、美濃部亮吉を初の革新都知事として送り出すために疾走した――これについて河盛好蔵は「正直なところ、御当人も決して好きでもなそそうな人物を知事にするために飛び回っている姿を見て、ああ勿体ないことをする、と惜しんだ」という――中野好夫は、その叡山の悪僧然たるつらだましいと、辛辣(しんらつ)痛烈の言論で保守陣営をひるませたが、平生の人柄は寛容で親切で律義であった。
彼は昭和59年8月、結腸のプリーフの手術をしてから、一時外出ができるほど回復したが、12月中旬からまた具合が悪くなり、こんどは肝硬変と診断された。実は8月、良性ポリープと発表されたが、ポリープとは別に肝臓を中心にガンがひろがっていたことが判明していたのである。彼はそのことを知らなかった。
そのころ訪れた編集者に、彼は湯呑を指して、持つのもおっくうという手付きをしながら「肝臓が悪いというのは何とも人を無気力にするね、タテのものをヨコにするのもいやになる」といった。
そして12月24日、美濃部亮吉が急死したというニュースを知らせても、彼はすでに何ら特別の反応も示さない状態にあった。
60年1月14日から再入院したが、「機械によって生かされるのはごめんだな」と何度もいった。
1月19日の午後、見舞いにいった哲学者古在由重に、中野は「こうなったら持久戦ですな・・・・まあ、勝てんとは思うけど」と、いった。
そういえば中野好夫は、真正の意味の正しき人、しかもその行為の空しさをしりつくしている正しき人であった。
       ・
2月20日午前3時3分、眠るように死んだ。
妻静はいう。「2、3日前から意識はなく、呼びかけると返事はしましたが、本当はわかっていなかったようです。安らかな死でした。
中野好夫は、平生から「自分は死後の世界など全く信じない」といっていた。本人のかねてからの意志により、柩には花束もおかず、遺影1枚が飾られただけであった。

                                                  • -

中野好夫 Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%A5%BD%E5%A4%AB&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=yeLZTaCCFYayvwPyyanFBw&ved=0CEMQsAQ&biw=906&bih=555