じじぃの「人の死にざま_610_S・ハンチントン」

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9.11.2001 N.Y.テロ  in JAPAN 動画 YouTube
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Noam Chomsky Interview on CBC (Part 1 of 2) 動画 YouTube
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Stop the Clash of Civilizations 動画 YouTube
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サミュエル・P.ハンティントン 氏が亡くなられました。文明の衝突:本と珈琲と甘味の時間 So-netブログ
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サミュエル・P・ハンティントン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
サミュエル・フィリップス・ハンティントン(1927年4月18日-2008年12月24日)は、アメリカ合衆国国際政治学者。コロンビア大学戦争と平和」研究所副所長を経てハーバード大学教授。1986年から1987年まで、アメリ政治学会会長を務めた。
彼の研究領域は政軍関係論、比較政治学国際政治学などに及び、軍事的プロフェッショナリズム、発展途上国における民主化、冷戦後の世界秩序での文明の衝突の研究業績を残している。
【生涯】
ハンティントンは1927年にニューヨーク市でホテル業界紙の発行者であった父親と小説家の母親との間に生まれた。
1962年にハーバード大学が終身在職権を示したために政治学部で教え始める。
カーター政権でも国家安全保障会議に加わり、ブレジンスキーの下で勤務していた。彼はハーバード大学での教育研究に尽力し、2008年にマサチューセッツ州介護施設で死去した。
リアリズムを基調とした保守的な思想で知られる国際政治学の世界的権威である。彼はもともと近代化とそれに伴う社会変動や民主化の理論で政治理論家としての名声を築いた。しかしその名を一躍世界に広めたのは「フォーリン・アフェアーズ」誌に投稿した論文をもとにした著書『文明の衝突』である。 ハンティントンは、冷戦以後の世界を文明にアイデンティティを求める諸国家の対立として描いた。コソボ紛争やトルコのEU加盟などさまざまな国際的な事例を引きつつ、文明同士のブロック化が進む世界を分析した。この主張は世界各国で反響を呼び、彼の名を世界的なものにした。 なお彼は、ホワイトハウスの政治顧問としても活躍した経験をもち、アメリカのアイデンティティの混迷を描いた『分裂するアメリカ』などの著書もある。

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文藝春秋 7月号 (2010年)
一学究の救国論 日本国民に告ぐ 藤原正彦お茶の水女子大学名誉教授) (一部抜粋しています)
ハーバード大学国際政治学者サミュエル・ハンチントン教授は、その1990年代のベストセラー『文明の衝突』の中で世界の文明を7つに分けた。中華文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、日本文明、東方正教会文明(ロシアなど)、西欧文明、ラテンアメリカ文明である。この中で日本文明以外はすべて、多くの国にまたがるものだ。いかなる分野でも、学者が何かを分類しようとする時、なるべく簡明なものにしようとする。複雑な区分けはもはや分類と呼べないからだ。
当然、日本という小国だけに存在する日本文明を、中華文明に組み入れようとする。ところが世界の文明を分類しようとする現代のどの学者も、日本文明を独立したものと見なすのである。1万年も前の縄文時代からあった土着の文明に、西暦2世紀頃から中華文明が混じり、16世紀末からは西欧文明の影響を受けたものの、主に日本という孤島で独自の発達をとげた文明と見なさざるを得ないからである。明瞭に中華文明に含まれる朝鮮半島などと異なり、日本文明と中華文明は何から何まで余りにも隔たっているからである。
日本は古来、新しい進んだ文明に触れると、繊細な民族性だけにすぐに劣等感を持ち、それを見習い取り入れてきた。感じも仏教も西欧の技術もそうだった。ところが不思議なことに。その劣等感をバネに、それら新文明に必ず独創性を加え、自分達独自のものに変えて行くのである。漢字が来れば間もなく万葉仮名、片仮名、平仮名を発明し、漢文の訓読を始める。仏教の方も伝来して間もない奈良時代には神仏習合という離れ技をなしとげ、遣唐使の終了した平安末期の頃から日本独自の仏教を創始した。禅や儒教は中国では庶民まで広がらなかったが、日本では武士道にとり入れたのを皮切りについには国民精神にまで広めてしまう。鉄砲が種子島に伝えられれば、その30年後には工夫に工夫を加え、織田信長が世界最優秀の鉄砲を3000丁も量産していた。先進中国のものであっても君主専制科挙や宦官は取り入れないなど、国柄との適合を念頭に、取捨選択と換骨奪胎(こんかつだったい)を繰り返しながら自らのものとしていたのである。

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