じじぃの「人の死にざま_584_岡本・かの子」

岡本かの子 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E3%81%8B%E3%81%AE%E5%AD%90/21162/
朗読:岡本かの子作「鬼子母の愛」 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=FfQDI618nqU
タモリ対談_2 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=_lX1QtO2v90&feature=related
岡本かの子 ウィキペディアWikipedia) より
岡本かの子は、大正、昭和期の小説家、歌人、仏教研究家。本名カノ。東京府東京市赤坂区(現東京都港区)青山南町生まれ。跡見女学校卒業。漫画家岡本一平と結婚し、芸術家岡本太郎を生んだ。小説家として実質的にデビューをしたのは晩年であったが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表された。耽美妖艶の作風を特徴とする。私生活では、夫一平と「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られ、瀬戸内晴美の『かの子繚乱』という小説の題材にもなっている。
【経歴】
代々幕府や諸藩の御用達を業としていた豪商の大貫家の別邸で誕生。
16歳の頃、「女子文壇」や「読売新聞文芸欄」などに投稿し始める。この頃谷崎潤一郎と親交のあった兄の大貫晶川の文学活動がはじまり、谷崎ら文人が大貫家に出入りするようになり影響を受けるが、谷崎は終生かの子を評価しなかった。17歳の頃、与謝野晶子を訪ね「新詩社」の同人となり、「明星」や「スバル」から大貫可能子の名前で新体詩や和歌を発表するようになる。
19歳の夏、父と共に信州沓掛(現長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢)へ避暑、追分の旅館油屋に滞在した。同宿の上野美術学校生を通じて岡本一平と知り合う。21歳の時、和田英作の媒酌によって結婚、京橋の岡本家に同居するが、家人に受け入れられず二人だけの居を構える。翌年、長男太郎を出産。赤坂区青山のアトリエ付き二階屋に転居する。
1929年(昭和4年)、『わが最終歌集』を刊行して小説を志すが、12月から一家をあげてヨーロッパへ外遊。太郎は絵の勉強のためパリに残り、かの子らはロンドン、ベルリンなどに半年ずつ滞在し、1932年(昭和7年)、太郎を残したままアメリカ経由で帰国。帰国後は小説に取り組むつもりだったが、世間はかの子に仏教を語ることを求め、仏教に関するラジオ放送、講演、執筆を依頼され、『観音経を語る』、『仏教読本』などを刊行した。かの子が小説に専心したのは晩年の数年間だった。1936年(昭和11年)、芥川龍之介をモデルにした『鶴は病みき』で作家的出発を果たす。パリに残した太郎への愛を、ナルシシズムに支えられた母と子の姿で描いた『母子叙情』、自由と虚無感を描き、当時の批評家に絶賛された『老妓抄』、女性が主体となって生きる姿を、諸行無常の流転を描いて確立させた『生々流転』などは代表作となった。1939年(昭和14年)、油壷の宿で脳溢血で倒れ自宅で療養していたが、2月に入って病勢が急変、2月18日、49歳で死去。

                                    • -

日曜美術館 「岡本太郎 “眼”はみだしたっていいじゃないか 」 2011年4月10日 NHK
【解説】山下裕二(美術史家・明治学院大学教授)
岡本太郎の代表作「太陽の塔」。実はその内部に高さ50メートルにも及ぶ、もう一つの巨大な作品があった。「生命の樹」、単細胞から人類まで、40億年にも及ぶ生命史を表現した大作である。
岡本太郎は、なぜ「生命の樹」をつくりあげたのか? 去年12月に新たに発見された生命の樹の下絵。そこに描かれていた、太郎の文字“ナンダコレワ”。太郎に強い影響を受けて画家を目指したというジミー大西が、40年ぶりに太陽の塔の内部を訪ね、その謎に迫る。
岡本太郎は生涯、無数の《眼》を描いた。その《眼》は、社会のあらゆる惰性に怒りをもって闘いを挑んだ。
“ナンダコレワ”、太郎の描く《眼》は、次第に顔の他の部分が無くなり《眼》だけになっていく。輪郭をはみ出し、疾走する《眼》。それ自体が魂をもってこちらを凝視している。太郎はその眼で何を伝えようとしたのか?
闘う芸術家・岡本太郎の《眼》の正体に迫る。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2011/0410/index.html
『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
岡本かの子 (1889-1939) 49歳で死亡。 (一部抜粋しています)
岡本かの子は30代の終りごろから肥満しはじめ、それ以軽度ながら2脳溢血を起こして卒倒した。しかも晩年の数年は公私多忙をきわめ、特に超人的な執筆で心身ともに疲労の極に達した。
昭和14年1月末日、銀座に出たが気分悪く早々に帰宅しようとし、青山高樹町のバス停留所に下りたとたん、3度目の強い脳溢血に襲われて卒倒し、以後臥床をつづけた。2月17日容態急変し、ただちに東大病院小石川分院に入院したが時すでにおそく、翌18日午後1時半永眠した。
夫一平(いっぺい)が1週間ほど喪を秘したため、さまざまの流説がながれた。
パリにいた息子の太郎は、2月24日夜モンパルナスのカフェから帰って、アトリエの扉からさしいれられた夫一平からの電報を発見した。「カノコ、ビョウキ、カイフクノミコミ」
26日、また電報が来た。「カノコ、キトク、キボウヲステズ」
28日、3度目の電報が来た。「カノコ、ヤスラカニネムル。キヲオトスナ、アトフミ」
すでに第1の電報以前にかの子は死亡していたのに、太郎の衝撃を馴らすための父一平の配慮であった。

                                    • -

岡本かの子 Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E3%81%8B%E3%81%AE%E5%AD%90&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=IUqzTbyiKI6gvgPh47iVBw&ved=0CC0QsAQ&biw=943&bih=548