じじぃの「人の死にざま_651_岡本・綺」

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岡本綺堂 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
岡本綺堂(1872年11月15日(明治5年10月15日)-1939年(昭和14年)3月1日) は、小説家、劇作家。本名は岡本敬二。別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。新歌舞伎の作者として、及び『半七捕物帳』などの作品が著名である。
【経歴】
元徳川幕府御家人で維新後にイギリス公使館に勤めていた敬之助の長男として東京高輪に生まれる。
東京府尋常中学(のちの東京府立一中、現東京都立日比谷高等学校)在学中から劇作家を志し、卒業後1890年、東京日日新聞入社。以来、中央新聞社、絵入日報社などを経て、1913年まで24年間を新聞記者として過ごす。日露戦争では従軍記者として満州にも滞在した。吉原芸妓をしていた宇和島藩士の娘の小島栄を落籍して結婚。
1913年以降は作家活動に専念し、新聞連載の長編小説や、探偵物、スリラー物を多く執筆。生涯に196篇の戯曲を残した。1916年には国民新聞、時事新報の2紙に新聞小説を同時に連載(『墨染』『絵絹』)。同年、シャーロック・ホームズに影響を受け、日本最初の岡っ引捕り物小説『半七捕物帳』の執筆を開始、江戸情緒溢れる描写で長く人気を得た。怪奇ものでは、中国志怪小説や英米怪奇小説の翻案や、『世界怪談名作集』、『支那怪奇小説集』などの編訳もある。幼少期からの歌舞伎鑑賞を期した『ランプの下にて』は明治期歌舞伎の貴重な資料となっている。
1918年に欧米を訪問し、作風が変わったとも言われる。1923年9月1日関東大震災で麹町の自宅・蔵書(日記)を失い、門下の額田六福の家に身を寄せ、その後麻布、翌年百人町に移る。1930年には後進を育てるために月刊誌『舞台』を発刊、監修を務める。1937年には演劇界から初の芸術院会員となる。昭和10年頃からは小説(読物)や随筆は、散発的に『サンデー毎日』誌に書く巷談ぐらいになり、1937年『虎』が最後の読物となるが、戯曲は『舞台』誌で1938年まで発表を続けた。
1939年、目黒において肺炎で死去。青山墓地に葬られる。没後、元書生で養嗣子の岡本経一が綺堂作品の保存普及を目的として出版社「青蛙房」を創立した。現社長の岡本修一は綺堂の孫にあたる。
【半七捕物帳 概要】
かつて江戸の岡っ引として、幕末期までに数々の難事件・珍事件にかかわった半七老人を、明治時代に新聞記者の「わたし」が訪問し、茶飲み話のうちに手柄話や失敗談を聞きだすという構成で、旧幕時代の風俗を回顧しながら探偵小説としての謎解きのおもしろさを追求する趣向の小説である。本格推理、怪談風味、サスペンスなど物語の展開も多様である。何よりも古さを微塵も感じさせない引き締まった文章がすばらしく(解説者都筑道夫曰く「まるで今年書かれた小説のようだ」)、出来不出来がほとんど見られない(解説者北村薫曰く「全部をお読みくださいと言うほかない」)。
厳密な時代考証や綺堂自身の伝聞・記憶などから、江戸期の江戸八百八町を小説の上にみごとに再現した情趣あふれる作品。時代小説としてのみならず風俗考証の資料としても高い価値を持ち、明治期の「現代人」を媒介に、江戸時代を描写する遠近法的手法が使われている。作中では「捕物帳」は、町奉行所の御用部屋にある当座帳のようなもので、同心や与力の報告を書役が筆記した捜査記録をさしている。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
岡本綺堂(おかもときどう) (1872-1939) 67歳で死亡。 (一部抜粋しています)
修禅寺物語』『鳥辺山心中』『番町皿屋敷』『権三と助十』などの戯曲を残したほかに、最初にして最高の捕物帳『半七捕物帳』を書いた岡本綺堂は、生来蒲柳(ほりゅう)の質であった。1メートル67センチくらいの身長を持ちながら、体重は45キロを超えたことがないという痩せの体格であった。そして実際一生絶えず、胃腸病、腎臓病、心臓病、歯痛、頭痛、不眠症等に悩まされつづけた。
従って病気には神経質であったが、不時の災害に対しても慎重であった。たとえば市中のバスに乗らなかった。電車と衝突したらバスのほうが負けるからだ。エレベーターに乗らなかった。もし鎖が切れたらふせぎようがないからというのだ。横町や小路を通らなかった。遠回りしても大道を歩く。家の軒下などを歩いていて、上から瓦が落ちてきたらどうするか、昔の武士はそれくらい用心をしたものだ、と彼はいった。
病弱でありながら、彼が比較的多くの仕事をしたのは、勝負事は一切きらい、スポーツ、映画にも興味がない、犬猫を飼う趣味もない。交際も栄達も求めない、ただ書斎に籠ってコツコツと仕事をしているのが何より愉しいという彼の性格と生活のおかげであった。
その綺堂も、目黒の家で静かな死を迎える日が来た。昭和14年3月1日のことであった。
「その日も朝から雨催(もよ)いの、春には遠い底冷えのする寒さであった。庭の寒菊も霜に伏したままで、軒先の猫柳もまだ芽を吹かなかった。
近来しきりに頽老(たいろう)を嘆じていた綺堂は、前年の10月から慢性の気管支炎が悪化して肺浸潤を宣告されていた。
老年の有難さには、今さら肺を煩(わずら)ったとて驚くこともない。ただ絶対安静を云いつけられたので、本も読めないのが情ない位のものだ。そういって笑っていたが、書斎の机から離れるのが寂しくて、病床の脇に置く机を求めたりした。
 昼もねて聞くや師走の風の音          綺堂
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2月12日には危篤状態に陥った。そして17日甚だしい呼吸困難の発作が起こった後は、全身衰弱が更に著しくなって、酸素吸入もリンゲルの注射も効果は見えなかった。後に思えば、綺堂はすでに死期の迫っていることを覚悟していたようである。まあ、出来るだけやってみるさ。何にも無理を云わず、医者任せ、看護婦任せで、何の執着もなかった。傍のモノの労をねぎらって、息苦しい中から冗談をいったりした。
意識の明瞭なこと、気力の衰えぬこと、これを唯一の頼みのして、みんな奇蹟を信じていたけれども、定命(じょうみょう)のともしびの消えかかるのも防ぎ止むる術はなかった。
3月1日の夜明け前、門下代表の額田六福を枕許に招いて、ただ看護の礼と後を頼むという言葉だけで、殊更の遺言も感想ももらさなかった。こんこんと深い眠りにおちてふたたび眼を開かなかった。遠間の静かな息が長く尾を引いて消えて無くなったのは、真昼の零時20分である。例の少し唇を曲げて含み笑いをするような白皙の顔に、死の苦渋はみられなかった。
妻の栄女がそっと起って別間に入った。嗚咽(おえつ)の声が長く洩れて聞えた。
真昼の郊外はただ静かであった。やわらかい薄日が縁側からさしこんで、床の間に飾った綺堂好みの雛祭人形に白々しく影を落としていた」(岡本経一『綺堂年代記』より要約)
なお大正6年にはじまった『半七捕物帳』は、その68篇目『二人女房』が昭和11年に発表されたのを最後としている。

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