近藤日出造 - あのひと検索 SPYSEE
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常設展「近藤日出造の世界」
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近藤日出造 諷刺画 画像
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近藤日出造 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
近藤日出造は日本の漫画家である。本名は秀蔵(読みは同じ)。政治家の似顔絵を主とする政治風刺漫画を中心に描いた。一コマ漫画や似顔絵の名手と称されることもある。妻は横山隆一の妹。
【来歴】
当初は岡本一平の門下で、アイディア主体のナンセンス漫画を目指した。北沢楽天に代表される既成の漫画家に対抗するために結成した新漫画派集団の仲間である横山隆一のセンスのよさ、杉浦幸雄の風俗描写には太刀打ちできないとして、似顔絵によるルポや政治漫画に活路を求めた。
第二次世界大戦後に復刊した『漫画』誌に近藤が最初に描いたのは、東條英機が檻に閉じ込められているもので、大戦中に体制翼賛体制に協力していながら、主義主張を完全に翻した漫画を描き始める。この転向に対し、1946年の『漫画』誌上で近藤は「結局我々は生活のために漫画を描く庶民なのだから、時勢に合った漫画を描いても仕方がない」という旨の弁明を度々掲載し、自己批判することなく再び漫画家の世界でリーダー的な立場を保った。戦後に結成され近藤がリーダーであった漫画集団は、戦前の新漫画派集団が事実上存続したものであるともいえる。
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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
近藤日出造(こんどうひでぞう) (1908-1979) 71歳で死亡。 (一部抜粋しています)
風刺漫画と辛辣な人物評で知られた近藤日出造は、漫画の実作の世界でも、漫画界のリーダーとしてもかがやかしい成功者と目されていたが、しかし還暦を過ぎてから3つの苦難や悲哀に逢着することになった。
昭和43年、彼が主宰し発刊した雑誌「漫画」が失敗した。翌年、彼が理事をしていた「漫画学校」が倒産した。これからは彼の肩に重い負債を残した。そして48年には彼の最愛の次男喬が25歳の若さで、新宿のレストランで肉をのどにつめて急死した。
これらの難儀や悲しみに耐える晩年を迎えた彼は、なお生来の勤勉性と負けぬ気概を失わない日々を過ごしていたが、昭和51年1月4日、こんどは彼が有楽町のレストラン三笠会館で食事中、突然脳溢血で倒れた。
治療の後、3月から中伊豆温泉病院に移ったが、右半分は完全に麻痺していた。筆を持たせても描くことにまったく興味を示さず、ただいちど英夫人(漫画家横山隆一の妹)が「パパ、私の顔を描いて。これまでいちども描いてくれなかったじゃないの」というと、やっと筆をとり、ゆっくりゆっくり、数日かかって描きあげたが、これが絶筆となった。
9月、なんの成果もなく帰京したが、『近藤日出造の世界』の著者峯島正行は、「東京に移されてからの病状はあまりに悲惨で、ここに書くには忍びない」と書く。
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発病以来つき切りで看病していた英夫人は、53年7月、これまた脳溢血で急死した。日出造は、夫人が「怪我をして入院している」と教えられた。そして妻の死を知らないまま、54年3月23日に死亡した。
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近藤日出造 Google 検索
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