じじぃの「人の死にざま_575_張・作霖」

張作霖 - あのひと検索 SPYSEE
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【ドミトリー・プロホロフ】張作霖爆殺事件はソ連特務機関の謀略であった[桜H21/12/7] 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=1si9hA_vfsk
張作霖 暗殺―池上さんマジですか 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=FzRUZbaQnqI&feature=related
張作霖爆殺事件」真相に迫る つれづれなるままに
近年、ソ連特務機関説を作家(ロシア)記しているそうだが、やはり関東軍特務機関による犯行とする両小説の説得力は大きい。
http://blog.goo.ne.jp/hamachidori777/e/403adbd2f52dd0490996cb391c6e2241
張作霖 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
張作霖中華民国初期の軍閥政治家で、北洋軍閥の流れを汲む奉天派の総帥。満州の統治者であり張学良・張学銘・張学思の父。字は雨亭。
【生涯】
遼東半島の付け根に位置する海城県で生まれる。
1904年に日露戦争が勃発し、東三省は戦場となった。張はロシア側のスパイとして活動し、大日本帝国陸軍に捕縛されたが、張に見所を認めた陸軍参謀次長・児玉源太郎の計らいで処刑を免れた。この時、児玉の指示を受けて張の助命を伝令したのが、後に首相として張と大きく関わることとなる田中義一(当時は少佐)である。その後は日本側のスパイとしてロシアの駐屯地に浸透し、多くの情報を伝えた。
1928年4月、蒋介石は改めて国民革命軍を改編し、欧米の支持を得て再び北伐を開始した。同年6月4日、国民革命軍との戦争に敗れた張は北京を脱出した。
当時の日本の首相・田中義一はなおも張の利用価値を認め、東三省で再起させることを考えていたが、既に満州国の建国計画を進めていた関東軍は張の東三省復帰を望まなかった。
張は自らの根拠地である奉天へ向かったが、関東軍の参謀・河本大作大佐の策略で、奉天近くの皇姑站で乗っていた列車を爆破された。張は爆発で重体となり、自動車で私邸に担ぎ込まれたが、まもなく死亡した。
張作霖爆殺事件は当初から関東軍の犯行であるとの説が有力であり、第二次世界大戦終結後に明らかにされたいくつもの証拠により現在では定説となっている。
張の支配地域は長男・張学良が継承した。彼は国民政府と結び、さらにアメリカなどと共同して満鉄の利権回復に乗り出した。また父から引き継いだ幕僚のうち、日本と近い関係にある楊宇霆らを粛清した。
1931年に満州事変が勃発、日本軍は東三省全土を制圧し張学良を同地から追放した。張学良に粛清されなかった軍人や現地有力者出身の幕僚層の多く(例えば于沖漢・張景恵)は日本の利権と結びつきを持っており、引き続き日本に従い、翌年の満洲国成立後は要職に就任することとなった。根拠地を失った張学良は国民党政府に庇護を求めた。
張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説】
張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説とは1928年6月4日に発生した張作霖爆殺事件は、通説の日本人軍人であった河本大作による策謀ではなく、ソ連陸軍特務機関による犯行であるとする説である。ロシア人歴史作家のドミトリー・プロホロフが最初に主張した。
この説は「旧ソ連共産党や特務機関に保管されたこれまで未公開の秘密文書から判明した事実」として紹介されているが、『正論』2006年4月号のインタビュー記事のプロホロフの説明によると「従来未公開のソ連共産党や特務機関の秘密文書を根拠とする」ものではなく「ソ連時代に出版された軍指導部の追想録やインタビュー記事、ソ連崩壊後に公開された公文書などを総合し分析した結果から、張作霖の爆殺はソ連特務機関が行ったのはほぼ間違いない」としている。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
張作霖(ちょうさくりん) (1873-1928) 55歳で死亡。 (一部抜粋しています)
馬賊から身を起して満州の帝王と呼ばれるほどの実力者となり、一時は北京英府の大元師として中国本土に君臨した張作霖は、国民党北伐軍の圧迫で満州へひきあげる途中、昭和3年6月4日午前5時半、奉天へ1キロの地点で、列車もろとも爆破された。彼は重傷を負ってトラックで奉天の嬪宮(ひんきゅう)に運ばれたが、出血多量のため午前10時に絶命した。
これは満州征服を狙う関東軍の河本大作大佐らの陰謀によるものであった。その目的のためには張作霖の帰還は障害みなったからである。
この事件は日本でも「満州某重大事件」と報道され、天皇から叱られた田中義一首相は内閣総辞職をしたが、関東軍の狙いは3年後の満州事変によって一応実を結んだかにみえた。
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張作霖の子、張学良は日本に対して復讐を誓い、昭和11年12月、いわゆる「西安事件」を起して、当時敵対関係にあった国民党と中共との間に統一抗日戦線を結成させたからである。
この馬賊上がりの満州の将軍一人の死は、日本にとって非常に高いものについたといわねければならない。

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張作霖 Google 検索
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