じじぃの「人の死にざま_564_今西・錦司」

今西錦司 - あのひと検索 SPYSEE
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京都大学国際シンポジウム 「変化する人種イメージ ―表象から考える」08 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ry1Iw9bcyJI
私が愛したゴリラ 前編 FILE037 山極壽一(霊長類社会生態学 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=OuLV8kZUeCg
今西錦司 ウィキペディアWikipedia)より
今西錦司は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学、1939年)。京都の織屋「錦屋」の生まれ。
第二次大戦後は、京都大学理学部と人文科学研究所でニホンザルチンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類社会学の礎を築いた。
【今西の学説とその影響】
「今西説」によると、生理・生態がよく似た個体同士は、生活史において競争と協調の動的平衡が生じる。この動的平衡状態の中で組織されたものが実体としての種であり、今西が提唱する種社会である。種社会は様々な契機によって分裂し、別の種社会を形成するようになる。分裂した種社会はそれぞれ「棲み分け」ることによって、可能ならば競争を避けつつ、適切な環境に移動することができたとき、生物個体と種社会はそれぞれ自己完結的・自立的な働きを示す。その結果生じる生理・生態・形態の変化が進化であるとした。したがって進化とは棲み分けの密度化という方向性があるという。その過程において、突然変異は種社会の中で通常以上に高頻度に起きることが必要であり、またその変異は速やかに種社会に広がること、変異はランダムではなく発生の制約上方向性をもち、どちらかというと前適応的におきた変異に対して生物が主体的に振舞うので適応的に見えるというのが今西進化論である。
このことから分かるように、今西の定義した種や進化は、諸個体の認知と相互作用に基づいた構成的な概念であり、ナチズムと批判されるコンラート・ローレンツの考えていた種や群淘汰とは意味が異なる。そのために全体生物社会(ホロスペシア)を含め、守らなければならない全体が意図されたものではない。したがって今西自身が自身の議論を全体主義としたり、サルの行動を群本位の行動といった言明もあるが、通常の意味で全体主義と言えるものではない。
戦後は動物行動学や生態学的な議論を進めた今西ではあるが、「変わるべくして変わる」と言いながらも発生に関する方法論や、集団遺伝学的な議論について十分な議論をしなかったこと、総合説に対する時代遅れの批判、全体論的な認識論が科学教育と合致しないこと、中心となる種・種社会・主体性といった独自の用語が多くの生物学者に理解されなかったことによって、広く受け入れられるには至らなかった。近年は擬似科学的であると分類する科学哲学者もいるように、現在今西の支持者は非常に少ないことは確かである。

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朝日新聞社 100人の20世紀 下 2000年発行
今西錦司(いまにしきんじ) (1902-1992) 90歳で死亡 【執筆者】川上義則 (一部抜粋しています)
敗戦から3年の1948年春、宮崎県の都井(とい)岬。
今西は腰にふかしイモを入れた弁当を掲げ、尾根に沿ってウマを探して歩いていた、と前方の茂みがざわざわと揺れ、ニホンザルの1群が現れた。4、50頭はいる。
群れの中に、一目でボスと分かるでかいのが1頭いた。態度も動作も人間にそっくりだ。心の中で今西は叫んだ。
「ウマどころやない。こりゃ、すぐにサルをやらにゃあかん」
今西錦司46歳、京大理学部の講師だった。
人間社会の成り立ちを野生動物の社会から探ろう。戦後、今西が手がけた最初の仕事だった。今西はそれをウマでやろうとした。当時まだ学生で、調査を手伝っていた川村俊蔵・京大名誉教授は、「今西さんの意気込みは大変なものでした」と振り返る。
しかしサルとの遭遇で、日本の霊長類学の方向は決まった。
実は都井岬のほかに、野生ウマ観察の候補地がもう1つあった。北海道の日高だ。今西は迷っていた。ある日たまたま手にした雑誌に、日向灘を背に草をはむ群れが紹介されていた。彼はフィールドを都井岬と決めた。川村はいう。
「もしあのとき今西さんが北海道に行っていたら、日本の霊長類学は10年遅れていたでしょう。北海道にサルはいませんから」
その年の秋、今西は川村と、大学に入ったばかりの伊谷純一郎・京大名誉教授を連れて、再び都井岬を訪ねた。
今度は川村と伊谷が群れと会う。夕方、尾根にいた2人の目の前に、100等近いサルの集団が現れた。鳴き交わしながら尾根を渡っていく。
「ガ、ガ、ガ」「クン、クン」「クィー、クィー」・・・・。
10種類近い音声を聞き分けた伊谷は、「意思を伝えあっているのだ」と直感した。
その夜、山あいの宿屋で報告会を兼ねた酒盛りが始まった。ふだん無愛想な今西が上機嫌で、「やっぱりサルやな」と断を下した。焼酎を飲みながら今西の講義が始まる。
「動物というても無名の集団やない。それぞれに個性があり、複雑な社会関係があるんや」
当時、こんなことをいう生物学者はいなかった。人間以外の生き物に「社会」があるなど、だれも思っていなかったのだ。
その社会を「固体識別」という、ウマの調査で初めて用いた手法で観察しようというのである。
これも今西の独創だった。群れの一頭一頭の特徴を見分けて名前を付け、長期にわたってその行動を記録していくというやり方だ。
「双眼鏡とノートと鉛筆があればええ」と、今西は何度もいった。
今西はやがてヒマラヤ踏査の先発隊長としての仕事に追われ、伊谷らがサルの調査を引き継ぐ。主なフィールドは都井岬から近い幸島大分県高崎山だった。
52年、固体識別に成功した。伊谷はサルの特徴にしたがって「アカキン」「カミナリ」「ヒヨシマル」などと命名し、ノートを手に朝から双眼鏡をのぞく日が続いた。
「一頭一頭を見分けた上で観察すると、確かにそれ以前とはまったく違う世界が見えてくるんです」
縄張りや上下関係があり、それによって秩序が保たれていること。互いにコミュニケーションを取りあい、文化があること、などだ。
これらの発見で、日本の霊長類学は世界の最先端に立った。
ある日、今西はぼそりという。
「いずれアフリカの大型類人猿をやらないかんな」
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愛知県犬山市にある京大霊長類研究所。今西が設立に力を尽くし、67年に発足した施設だ。
都井岬から始まった日本の霊長類研究が50周年を迎えた98年秋、英国からジェーン・グドール博士が研究所を訪ねた。大型類人猿のシンポジウムに参加するためだった。
彼女は霊長類学でただ1人、今西を悔しがらせた研究者である。
今西は60年、チンパンジー調査のため伊谷らをタンザニアタンガニーカ湖畔に派遣した。するとそこには、すでにテント生活をしながらチンパンジーを観察している女性がいた。それがグドールだった。
仕方なく別の場所に基地をつくったが、もたもたしているうちに彼女は目ざましい成果をあげていく。
チンパンジーは肉食をする。シロアリを食べるのに道具を使う・・・・。彼女の独壇場だった。
彼女は2度、今西と会っている。最初は63年、タンガニーカ湖畔の彼女の基地だった。
今西は1日中、山を歩き回り、日本製の赤ワインを飲んでいた。霊長類の進化に強い関心を持ち、意見を聞かれたことを覚えている。
2度目は発来日した82年。グドールはいう。
シンポジウムで類人猿のフィルムを見ながら検討をしていたら、博士がすっと席を外した。するとフィルムも討論も中断してしまった。
今西は大相撲千秋楽の結びの一番をテレビで見るために中座したのだった。グドールは、そうした今西に家父長的な面影を感じ、全体主義に通じるイメージを見たという。
「しかし、彼こそは霊長類学の父でした。それだけは断言できます」

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