じじぃの「世界遺産・伝説にうたわれた遺跡を発見・トロイアの宝・ミケーネの遺跡!世界史の迷宮」

Troy [HD 1080p Blu-ray Official Trailer] 動画 YouTube
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Truth of Troy: Proof of The Trojan War 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=DtzNby7PB9k&feature=related
プリアモスの財宝 Google 検索
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アガメムノンのマスク 画像
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シュリーマン Google 検索
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地球ドラマチック 「“神話の舞台”を発掘した男〜シュリーマンの愛したトロイ〜」 2011年8月13日 NHK Eテレ
【語り】渡辺徹
トロイ遺跡は、現在のトルコ北西部に位置する世界遺産。今も発掘が続いている。番組では「神話の舞台」の発掘に情熱を傾けた19世紀のドイツ人考古学者シュリーマンの執念をたどるとともに、神話に描かれなかった現実のトロイ戦争や、最新の測定技術で浮かび上がってきた遺跡群の全体像など、近年の発掘調査での新発見を盛り込んで伝える。(制作:Spiegel Production/配給:ZDF【ドイツ/2009年】)
https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20110813-31-17604
ハインリヒ・シュリーマン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマンは、ドイツの考古学者、実業家。ギリシャ神話に出てくる伝説の都市トロイアが実在することを発掘によって証明した。
トロイア発見】
彼は『イーリアス』を読み込んだ結果、トロイア市はヒサルルクの丘にあると推定した。1870年に無許可でこの丘の発掘に着手し、翌年正式な許可を得て発掘調査を開始した。1873年にいわゆる「プリアモスの黄金」(トロイアの黄金)を発見し、伝説のトロイアを発見したと喧伝した。この発見により、古代ギリシアの先史時代の研究は大いに進むこととなった。
ギリシア考古学の父】
シュリーマンは、発掘した遺跡のうち下から2番目(現在、第2市と呼ばれる)がトロイア戦争時代のものだと推測したが、後の発掘で実際のトロイア戦争時代の遺跡は第7層A(下から7番目の層)であることが判明した。第2層は実際にはトロイア戦争時代より約1000年ほど前の時代の遺跡だった。これにより、古代ギリシア以前に遡る文明が、エーゲ海の各地に存在していたということをも証明した。
また彼は、1876年にミケーネで「アガメムノンのマスク」のような豪奢な黄金を蔵した竪穴墓を発見している。1881年トロイアの黄金をドイツ国民に寄贈してベルリンの名誉市民となった。建築家ヴィルヘルム・デルプフェルトの助力を得てトロイア発掘を継続する傍ら、1884年にはティリンスの発掘に着手。1890年、旅行先のナポリの路上で急死し、自宅のあったアテネに葬られた。
アガメムノンのマスク】
アガメムノンのマスクは、ミケーネで1876年にハインリッヒ・シュリーマンによって発見された遺物である。この仮面は、金でできた葬儀用の仮面であり、埋葬穴(円形墓群Aの5号墓)にあった死体の顔の上で発見された。シュリーマンは、伝説上のギリシアの指導者アガメムノンの死体を発見したと信じ、この仮面の名前はここから来ている。しかしながら、現代の考古学的調査は、この仮面が紀元前1550年から1500年のもので、これまで言われてきたアガメムノンの活動期より早いことを示唆している。それにもかかわらず、アガメムノンのマスクという呼称は、依然としてそのまま残っている。この仮面は、現在はアテネの国立考古学博物館に展示されている。

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世界遺産ライブラリー [ミケーネの考古遺跡] NHK世界遺産
ギリシャペロポネソス半島東部に位置するミケーネの考古遺跡。後方を2つの山に囲まれた天然の要塞都市です。詩人ホメロスが「黄金に富む」と謳った伝説の都として知られています。19世紀後半ドイツ人考古学者ハインリッヒ・シュリーマンにより発掘されました。
世界遺産100」では「黄金伝説の都」と題し、シュリーマンにより発掘された遺跡や、美しい発掘品の数々をご紹介します。
ミケーネの遺跡でまず眼を引くのが巨大な二頭の獅子が構える獅子門です。シュリーマンが発掘した当時はわずかに獅子の頭が地上に出ている程度でした。シュリーマンは紀元前2世紀に書かれた書物を頼りに、この場所がトロイア戦争ギリシャ軍の総大将として活躍したアガメムノンが支配したミケーネだと考え発掘を始めました。中でもシュリーマンが目をつけたのが城壁の中に広がる円形墳墓でした。シュリーマンは王家の墓の中に、ホメロスが謳った黄金の証があるはずだと考えました。実業家として成功していたシュリーマンは私財を投じて発掘にあたります。やがて数対の遺骸が黄金の装飾品とともに発見されました。黄金のマスク、王冠、嬰児のカバー、髪飾り等々・・・。現在それらの装飾品はアテネの国立考古学博物館に大切に保存されています。シュリーマンギリシャの古代史を、この発見により1000年近く塗り替えたのです。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards435.html
『世にも恐ろしい世界史の迷宮』 桐生操/著 PHP研究所 1999年発行
伝説にうたわれた遺跡を発見−トロイアの宝 (一部抜粋しています)
トロイアの秘宝を発見した19世紀の探検家、ハインリヒ・シュリーマン(1822〜1890年)の名を知らない人は少ないだろう。
トロイアというのは古代ギリシャの有名詩人ホメロス叙事詩イリアス』にうたわれた、トロイア戦争の舞台となった町である。『イリアス』の中では、スパルタ王の妻で絶世の美女ヘレンが、トロイア王の息子パリスに誘拐されたことが原因で、ギリシャトロイア間に10年にわたる戦争が勃発した。
戦いは、ギリシャ側が仕組んだ「木馬」にトロイア側がまんまと騙されることで、ようやく幕を下ろすのである。
が、そこにうたわれている物語を事実だと考える者は、近代以後はいなくなっていた。
ところがシュリーマンだけは違っていた。彼は幼いころから父から贈られた子供用の歴史書を夢中になって読んだが、後にローマ建国の祖となった王族のアイネイアスが、父を背負い、息子の手を引いて城内から逃れでてくる場面が、生き生きとした挿絵で描かれていた。
シュリーマンは、挿絵に描かれた堅固な城壁や城門が、跡形もなくなってしまったはずがないと信じ、大人になったら自分の手でトロイアの遺跡を発見しようと、密かに決意したのである。
結核に冒され、貧しさに苦しめられるという、不運な青少年時代を過ごした彼は、生まれながらの才覚を駆使して後に商人として成功した。
こうして巨富を手に入れると、いよいよ少年時代からの夢の実現にとりかかったのである。
当時、多くの学者たちは、トルコの小アジアの北西にあるブナルバシの丘が、トロイアの故地であろうと主張していた。だがシュリーマンは現地を見た結果、その丘よりもっと海に近いヒッサリクの丘こそトロイアの故地であると信じたのである。
1871年10月11日、シュリーマンはヒッサリクの丘の発掘を開始した。それから約20ヵ月後の1873年6月15日のことである。
その日は朝から暑かった。シュリーマンはすでに掘りだされた城壁の上に立って、作業員たちの働きぶりを監視していた。
そのとき彼は、自分がプリアモスの王宮と信じていた建物の壁の下に、聖堂の櫃の一部がのぞいており、その腐食した個所が朝日を受けて金色に輝いているのを見た。
「金だ!」
シュリーマンは、脇にいた妻ソフィアに囁いた。
彼はすぐに発掘作業員たちをその場から引き上がさせ、妻にふたりだけになると、身につかていたナイフで、櫃を掘りだしはじめた。
壁はいつ崩れ落ちてくるかわからなかったが、計りしれない価値をもつ発見を目の前にして、彼はすっかり恐怖など忘れていた。
彼は、ただ夢中で堀りつづけた。やがて、ついに掘り出された櫃からは、壺、杯、冠、首飾り、耳飾り、腕輪、指輪など、金、銀、象牙で作られたさまざまな器や装身具が次々と出てきて、すでに高く昇った夏の太陽の下で眩しくきらめいたのである!
ソフィアは、夫が次々と手わたす品々を赤いショールに包み、人目を避けて、発掘小屋に運び込む。小屋との往復がしばらく続き、運び終えてすべての発掘品を机の上に広げると、それらの黄金は薄暗い室内でも、目を射るばかりの眩しさで、きらきらと輝いていた。
言葉にならない感動の中で、シュリーマンはふと、発掘品の中からひと組の耳飾りと1個の胸飾りを見つけて手に取り、まだ20歳の美しい妻の耳と胸元を飾った。
「きれいだ。ソフィア、この世のものとは思えない美しさだよ・・・・」
このとき彼は妻の上に、その美しさゆえにトロイア戦争を引き起こした、伝説の美女ヘレンを見ていたのである。
シュリーマンは、こう推量した。おそらくプリアモス王家のだれかが、これらの財宝を大急ぎで櫃に詰めたのだろう。そして敵の手が城壁に迫ったとき、櫃は城壁の根元に置き去りにされ、まもなく焼け落ちた王宮の瓦礫と灰の下に、あえなく埋もれてしまったのに違いない・・・・。
その後、これらの宝物はシュリーマン夫妻の手で、密かに国境を越えてギリシャに運びだされ、アテネのソフィアの親類の家などに分散して隠された。
シュリーマンは、宝の発掘をトルコの官憲に知られたくなかった。なぜなら、トルコとの間に交わされた発掘の契約書では、発掘品の半分はトルコ政府のものに、残りの半分はシュリーマンのものになるが、それもトルコで売らねばならないことになっていた。
しかし、彼自身が秘宝の発見をドイツの新聞などに発表したため、トルコ政府はその存在を知ってしまう。
トルコは発掘品の提出をシュリーマンに求めたが、彼が拒否したため、翌年2月、裁判になった。結局、トロイアの遺品のごく一部をトルコに返し、そのほかにシュリーマンが1万フランを払うという条件で落ち着いた。彼は約束より多く、5万フランをトルコ官憲に渡したが、役人が横取りしてしまったと、後に述べている。
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ところで、トロイアを攻めたアカイア軍の総大将アガメムノンは、ミケーネの城主だった。当時ペロポネソス半島の東部、アルゴス地方の一角に位置するミケーネは豊かなことで知られていた。ホメロスはこの城を「黄金に満ちた」と形容している。
トロイアシュリーマンによって初めて発見されたのだが、ミケーネの城跡の存在は、早くから知られており、威容を示す「獅子門」という名の城門は旅人の人気の的となっていた。
このように城跡は残っていたのだが、黄金はまだ見つかっていなかった。そしてそれを掘リ当てたのが、またもシュリーマンだったのである。
プリアモスの宝の発見から3年後の1876年8月7日、シュリーマンは今度はアガメムノンの城の発掘調査を開始した。
2世紀の旅行家パウサニアスの記録や、ミケーネの城を舞台としたソフォクレスアイスキュロスエウリピデスの悲劇を熟読し、王家の墳墓が城壁の内側にあったに違いないと判断した彼は、「獅子門」を入って右側の低地を1日に125人ほどの作業員を使って掘りつづけた。
4ヵ月後の1876年12月6日、ついにシュリーマンは最初の墓を発見した。それから約1ヵ月間、彼と妻は地に這い、手とナイフだけで土を剥いでいた。そして合計5基の竪穴式墳墓と17体の亡骸を発掘したのである。
「大きな喜びを持ち、陛下に墳墓発見のご報告をいたします。伝説が物語るように、宴のさなかにクリュタイムネストラと愛人アイギストスによって殺害されたアガメムノン、カッサンドラとその仲間たちのものです」
これはシュリーマンギリシャの国王に送った第1報だ。墓の中の亡骸は、文字どうり黄金で覆われていた。文様を打ちだしたり、動物の形をした金の装身具が頭、首、胸、腕を飾っていた。
亡骸の周囲には黄金の杯や箱が散らばり、男性の遺体の多くは、金銀で象嵌(ぞうがん)した聖堂の武器を構えていた。5基の墓から見つかった貴金属は総量13.5キロにのぼり、そのほとんどが純金であった。
中でもユニークだったのが、いくつかの亡骸の顔を覆っていた黄金の仮面である。使者に永遠の輝きを与えようとして被せたものであろう。
シュリーマンがその中の最も印象的な遺体のマスクを取りのけると、その顔にはまだ生前の表情が認められたという。シュリーマンは感動のあまりその場に立ちつくして、
「いま私はアガメムノンの顔を見ているのだ!」
と叫んだと伝えられる。
ホメロスの詩に憑かれ、詩人のうたうトロイアの遺跡を捜し求めた"素人"考古学者シュリーマン。しかし生前は、かれの発掘したヒッサリクの丘がトロイアの遺跡であることを、どうしても受け入れようとしない学者が多く、とくに生国のドイツでは、彼の発掘方法が乱暴だとか、彼がたんなる「黄金漁り」だなどと非難する者もいた。
また、彼は少年時代の夢を実現したと自叙伝には書いているが、実際には黄金の出るところならトロイアでなくてもよかったのだ。その前にはイタリア各地で探り掘りをしており、たまたまトロイアで黄金製品が見つかったため、少年時代からの夢だったという物語を作りだしたのだ、と悪口をいう者もいる。
しかしシュリーマンは、伝説と神話の世界を現実の光の下に引きだし、古代史とは文献だけの世界ではなく、鍬(くわ)を持って自ら作業にあたることを、身をもって学界に示したのである。
真の意味での考古学は、まさにシュリーマンから始まるのだ・・・・。

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どうでもいい、じじぃの日記。
ネットで「最も有名な考古学上の発見」をキーにして検索してみた。
●ルーシー:1974 年ハダールで、ジョハンソンにより発見された320万前の考古学上最も有名な人類化石。
●今日ではツタンカーメンの名を知らない人はほとんどいないのではないでしょうか。いわば古代エジプト史の中でもっとも有名な人物であるといってもよいでしょう。だが、イギリス人のハワード・カーターが1922年に王墓を発見するまでは、誰もツタンカーメンの存在を知らなかったのです。
シュリーマンはトロイの発掘で一躍有名な考古学者になりました。ところで、彼はトロイ発掘の最中に黄金のお宝を発見していますが、なぜか根強い捏造説があります。どうして捏造説があるのでしょうか?
シュリーマンとはどんな人物だったのだろう。
職を転々としながらも商才を発揮しトロイ発掘の目標に向け蓄財し、かつ勉学にはげみ音読により文章を丸暗記する勉強法で多国語を理解し、ドイツ語のほか、英語、フランス語、オランダ語スペイン語ポルトガル語スウェーデン語、イタリア語、ギリシア語、ラテン語、ロシア語、アラビア語トルコ語に詳しかった。
シュリーマン古代ギリシア詩人ホメロスの書いた「イリアス」「オデュッセイア」の熱狂的ファンだった。
子どものころ抱いた夢を現実のものにした人がどれほどいるのだろうか。
考古学は自分のルーツを探る旅である。
自分のルーツを探る旅は明日の自分を知る旅でもあるのだ。
私は一体、何者なのだろうか。(単なるXXじじぃだよ! (^^;; )
ギリシャの「ミケーネの考古遺跡」は1999年 文化遺産としてユネスコ世界遺産に登録された。