じじぃの「人の死にざま_546_鈴木・茂」

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評伝 新聞記者時代の鈴木茂三郎
http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no39.htm
鈴木茂三郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
鈴木茂三郎1893年明治26年)2月7日-1970年(昭和45年)5月7日)は、日本の政治家、第2代日本社会党委員長。ジャーナリスト、エッセイストとしても知られた。
【生涯】
愛知県蒲郡市出身。鈴木家は旗本・竹本家の代官の家柄だったが、茂三郎の父の代にはすっかり零落しており、そのため幼少期の茂三郎は非常に苦学しながら中・高等教育を修め、旧制海城中学を経て1915年に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。
大学卒業後は、ジャーナリストとなり、『報知新聞』・『大正日日新聞』・『東京日日新聞』(現・『毎日新聞』)などの記者となり、主に経済部に所属して、経済ジャーナリストとして知られた。1918年に特派員としてシベリアにわたるが、その際、シベリア出兵を企てる軍部の陰謀を目の当たりにしたことで、軍部に対する不信を強め、以後、一貫して戦争反対を主張していくことになる。その後も度々、特派員としてソ連を訪れてソ連社会主義を目の当たりにしたことと幼少期に極貧生活を実体験したことから、次第に社会主義思想を身に着けるようになった。また、東京日日新聞記者時代には雑誌『労農』の同人となり、”薄茂人(すすき・もじん)”のペンネームで執筆をおこなっている。
1945年、日本の敗戦直後、日本社会党が結成されると、鈴木は左派の中心人物としてそれに加わった。1946年の総選挙で衆議院議員に初当選(以後、9回当選)し、1947年に政策審議会長、1949年に書記長、1951年に委員長と順調に党内での地位を固めていった。
1951年に日本社会党委員長に就任した際の党大会で、最終日の1月21日、委員長就任演説で戦争反対を訴え、次のように演説した。「青年の諸君に対しましては、ただいま再武装論がございます。再武装を主張する当年六十余歳の芦田均氏が鉄砲を持ったり背嚢を背負うのではないのでございます。再武装をするとすればいわゆる青年の諸君が再武装しなければならないことは当然でございます。私は青年諸君はこの大会の決定を生かすために断じて銃を持ってはならない。断じて背嚢をしよってはならない」この演説は大きな反響を引き起こし、鈴木の演説は「青年よ再び銃をとるな」として標語となり、以後、日本の平和運動の象徴的な存在となった。実は、鈴木が平和運動を盛り上げ、それを口実にして、当時の首相・吉田茂アメリカからの再軍備要求を退けるという役割分担が両者の間で出来ていたと言われている。この標語は、日本教職員組合にも取り入れられた。
1951年にサンフランシスコ講和条約の批准をめぐって、左右両派が分裂すると、鈴木は左派社会党委員長となり、分裂時、衆議院に16議席しかなかった左派社会党を1955年総選挙では89議席にまで躍進させた。
【評価】
戦前から戦後にかけて、戦争反対の立場を貫き、戦後の日本の平和運動の高揚に尽くした功績は大きい。社会主義を日本の現状に合わせるのではなく、従来のマルクス主義の解釈を無理やり高度経済成長期の日本社会に当てはめようとして日本社会党の路線の左傾化を招いたことを政治家としての鈴木茂三郎の失策とする声もある。

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文藝春秋 2010年1月号 昭和の肉声 いま蘇る時代の蠢動
昭和26年 青年よ再び銃をとるな 鈴木茂三郎(すずきもさぶろう) (一部抜粋しています)
昭和21年から衆議院選挙で9回連続で当選する。左派のリーダーとして活躍し、昭和26年1月12日の党大会で中央執行委員長に就任。「青年よ再び銃をとるな」は委員長就任挨拶で語られたものである。
私はこの際特に党の青年の諸君、婦人の諸君に一言訴えてその奮起を促したいと思いますが、青年の諸君に対しましては、ただいま再武装論がございます。再武装を主張する当年60余歳の芦田均氏が鉄砲を持ったり背嚢を背負うのではないのでございます。再武装をするとすればいわゆる青年の諸君が再武装しなければならないことは当然でございます。私は青年諸君はこの大会の決定を生かすために断じて銃を持ってはならない。断じて背嚢をしよってはならない(拍手)。青年諸君は確固とした方針をもって、ただ党内の問題、組合の中の問題にとどまらないで、党の問題は私ども新しい執行部におまかせを願いまして、青年諸君は広く青年大衆の中に入って党の方針を諸君が中心に確保願いたいのであります(拍手)。
婦人に対しましては、労働階級の犠牲によって資本主義的再建のとられておる今日、勤労大衆の家庭生活を通じて、働く人たちの生活がいかに蹂躙されておるかということを現実を凝視してもらいたい。あるいは不幸にして戦争になったような場合に、5400万人−−女、子供合わせて5400万人以上のこの婦女子を戦争の惨害からこの爆撃の下からどうしてこれを守ろうとするのであるか(拍手)。私は幸いにして一党の代表者がダレス氏と会見する機会を得たならば、世界の第三次戦争に対して、国際的な紛争に対して何ら関知しないところの日本が、こういう国際的な紛争のために日本が、不幸にして戦争に巻き込まれた際、ダレス氏は日本の5400万の婦女子を何によってこの戦禍から防衛してもらえるかということを聞きたい。
☆これは講和条約を巡って社会党が分裂したときの挨拶なんですね。左派社会党委員長としてモサさんは党勢を躍進させます。昭和30年、右派と再統一して日本社会党ができると、保守系が驚いて、自由党民主党が合同するわけです。(半藤)

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