じじぃの「人の死にざま_539_三浦・梅」

三浦梅園のこと
三浦梅園と聞いても多くの人はまだご存知ないと思います。梅園は江戸期、今の大分県の国東半島に生まれた哲学者です。梅園自身は自然哲学者として有名ですが、日本人には珍しく、抽象的概念を駆使してオリジナルな思想を展開したので、彼の主著である「玄語」は難解なことでも有名です。
http://www.oct-net.ne.jp/~iwatanrk/05Baien.htm
松岡正剛の千夜千冊『玄語』三浦梅園
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0993.html
三浦梅園 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
三浦梅園は、日本の江戸時代の思想家、自然哲学者、本職は医者。豊後国大分県国東市安岐町富清)の出身。
条理学と言われる独自の学問体系を築いた『玄語』が有名。主要著書としては、他に『贅語』『敢語』がある。これらは、梅園自身によって「梅園三語」と命名された。この三著作が梅園の思想の骨格をなすのである。このうち『贅語』と『敢語』は完成したが、『玄語』は37年の歳月を費やして、ついに完成できなかった。
「梅園三語」以外の著書には、詩学概論『詩轍』(してつ)、経世論『価原』、医学書『身生餘譚』『造物餘譚』などがある。
また、読書日記『浦子手記』には、道家の系譜の哲学概論『淮南子』、西洋天文学説『天経或問』をはじめ、『荘子』『列子』、宋学朱子学、仏教書などの数多くの書名も記されており、三浦梅園の思考はこうした当時の分厚い教養の上に成立していると思われる。また、陶弘景(456-536、医者、道教家)、韓康伯(4世紀)の人となりを慕っていたという。
梅園は三度旅をした以外は、故郷の大分県国東半島を離れることはなく、医業の傍ら黙々と思考を続け、その坦々とした生涯を終えた。複数の藩主から招聘の声もあったが、断ったという。

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『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
三浦梅園(みうらばいえん、1723-1789) 『三浦梅園』 中公バックス 日本思想史上もっとも独創的かつ体系的な自然の形而上学 【執筆者】山田慶兒 (一部抜粋しています)
三浦梅園について考えるとき、わたしはいつも思想の運命に想いをはせる。きわめて理論的に精緻を考えぬき、一貫した論理で世界を描きつくすことがなにを意味するか、梅園の生涯をかけた思索が物語っているからだ。
梅園は主著『玄語』−−訳すれば『根源的存在論』−−において、「易」の陰陽論の二分法原理にもとづき、一種の人工言語である独特の概念と図を駆使して、自然的世界の全体的な構造を記述しようとした。23年間に23回の改稿を重ねてようやく書き上げられたこの書が、日本思想史上もっとも独創的かつ体系的な自然哲学、すなわち自然の形而上学であるのは、疑いを入れない。
梅園が描き出した世界は、すべてのものが陰陽の原理にしたがって、シンメトリーを形づくっている世界、もっと正確にいえば、天地万物が厳密な対称性の法則に貫かれ、球対称の構造をとって存在している世界であった。梅園はその球対称の構造を、対称性の原理によって構成されたおびただしい対概念と図をつかって、大は宇宙から小は動植物にいたるまで、存在のさまざまなレヴェルについて、具体的に記述しようとしたのである。
梅園の方法は論理的一貫性をもつ理論体系の強味と弱味を、もろに露呈している。それが成功し、すぐれた思想的成果を収めたのは、自空論のような抽象的な領域においてであり、逆に具体的な動植物の世界については、その記述と分類に失敗した。ひるがえって考えれば、それは当然だった。事物の豊かな多様性は、自然的世界における対称性の破れ、いいかえれば偶然性から生まれるのだから。
梅園は常識や既成の学問を根本から疑うところから、その学問を構築した。到達した理論よりそれを育んが懐疑の精神において、梅園はいっそう偉大だった。そして論理をとことんまで追い詰めた理論なるものは、事実の世界の豊かさのまえではついに虚妄にすぎないことを、われわれに教えている。

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