じじぃの「人の死にざま_531_升田」

升田幸三 - あのひと検索 SPYSEE
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Famous Shogi Games: MASUDA vs TAKASHIMA (Jan. 15th, 1951) 動画 YouTube
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升田幸三 大山康晴(その1) video on CastTV Video Search
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こだわり人物伝 升田幸三 伝説の棋士 第4回「未来をよんでいました」 2011年2月23日 NHK
伝説の一局とともに、天才棋士升田幸三の人生をたどる4回シリーズ。谷川浩司九段の分析を交えつつ、作家大崎善生がいまなお高い評価を受ける新戦術を生んだ頭脳に迫る。
http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20110223-31-12359
升田幸三 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
升田幸三(1918年3月21日-1991年4月5日)は、将棋棋士。実力制第4代名人。木見金治郎九段門下。棋士番号18。
三冠独占などの輝かしい戦績は勿論のこと、その独創的な指し手、キャラクター、数々の逸話は、将棋界の歴史を語る上で欠かすことができない。
広島県双三郡三良坂町(現三次市)出身。
【人物】
父栄一、母カツノの四男として生まれる。1932年(昭和7年)2月に「日本一の将棋指し」を目指して家出。家出の時に愛する母の使う物差しの裏に墨でしたためた「この幸三、名人に香車を引いて…」の文言は、後に現実のものとなる。
広島市での飲食店やクリーニング店の丁稚奉公など紆余曲折を経て、大阪の木見金治郎八段の門下生となる。同門の先輩には大野源一、角田三男。そして後輩には、終生のライバル大山康晴がいる。初段でプロになるまで(当時のプロ棋士は初段からだった)が長かったが、初段になってからめきめきと頭角を現す。この頃、阪田三吉から指導を受け「あんたの将棋は大きな将棋や、木村義雄を倒せるのはあんただけや」と激励される。
その後、戦争を挟んで木村と死闘を演じ、木村引退後は大山と覇を競った。第7期名人挑戦者決定三番勝負の第三局(高野山の決戦)において、勝勢であったが手拍子の大悪手を指して、頓死を食らい「錯覚いけない、よく見るよろし」という有名な言葉を残す。将棋史上初の三冠(名人・王将・九段)制覇を成し遂げた時「たどり来て、未だ山麓」との言葉を残す。
「魅せる将棋」を大切にし、既成の定跡にとらわれず「新手一生」を掲げ、常に序盤でのイノベーションを数多く起こした。振り飛車居飛車共に数々の新手を指し、「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」と評された。当時はだれもそれに気がつかなかった。有名な新手には升田式石田流、雀刺し、急戦矢倉、棒銀、ひねり飛車、対ひねり飛車タコ金、角換わり腰掛銀升田定跡、駅馬車定跡、居飛車穴熊などがある。その功績を記念して、毎年行われる将棋大賞にて、新手や新戦法を編み出した棋士を表彰する「升田幸三賞」が、升田の没後3年余り経った1995年(1994年度)から設けられている。
角(角行)使いの名手であり、特に、自陣から敵陣をにらむ「遠見の角」を好んだという。
大きな功績を残したが、戦争中に患った病気が元で体調を崩し、現役晩年は休場の年も多く、タイトルなどの実績面では大山に押され、永世名人などの称号は得られなかったが、順位戦A級から一度も陥落することなく1979年に引退した。このため将棋連盟では1988年に升田のために新たな称号を作って「実力制第4代名人」の称号を贈った。
【エピソード】
・ヘビースモーカーでもあり、一日に200本も吸ったといわれる。また酒豪でもあり、後に谷川浩司には、「自分は5歳のときから酒を飲んでいたので記憶力が減退してしまった。酒は控えなさい」とアドバイスしている。反面、ギャンブルは大嫌いで、一応一通り試してみたが「運に左右されるものは勝負じゃない」と終生好まなかった。
・生涯のライバル、大山康晴との対局について、王将戦の記録係を務めた内藤國雄はこう語っている。「升田さんはタバコを吸い、大きな灰皿に花びらのようにポーンポーンと吸殻を並べていくんですね。それに対して、大山名人はアゴを引いてジッ…としている。それがまた素晴らしいですね。不動という感じでね。だから全く飽きなかったですね、この2人の対局は。棋譜だけではなく、2人の対局する姿も絵になっていたんですよ。」
終戦直後、日本を統治していたGHQが、「将棋は相手から奪った駒を味方として使うことができるが、これは捕虜虐待の思想に繋がる野蛮なゲームである」として禁止しようとした。将棋連盟の代表としてGHQと相対した升田は「将棋は人材を有効に活用する合理的なゲームである。チェスは取った駒を殺すが、これこそ捕虜の虐待ではないか。キングは危なくなるとクイーンを盾にしてまで逃げるが、これは貴殿の民主主義やレディーファーストの思想に反するではないか」と反論した。

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文藝春秋 2010年1月号 昭和の肉声 いま蘇る時代の蠢動
昭和22年 将棋こそ本当の民主主義  升田幸三(ますだこうぞう) (一部抜粋しています)
昭和21年に升田幸三7段が、当時不敗と謳われた木村義雄名人をストレートで破った5番勝負は大ニュースとなった。その翌年はGHQ本部に呼びだされ、有楽町に向かった。
 「冗談をいわれては困る。チェスで取った駒をつかわんのこそ、捕虜の虐待である。そこへ行くと日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない。つねに全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに働き場所を与えようという思想である。しかも、敵から味方に移ってきても、金は金、飛車なら飛車と、元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」
 「あなた方はしきりに民主主義を振り回すけれど、チェスなんてなんだ。王様があぶなくなると、女王を盾にしても逃げようとするじゃないか。古来から日本の武将は、落城にあたっては女や子供を間道から逃がし、しかるのちにいさぎよく切腹したもんだ。民主主義、民主主義とバカの1つおぼえみたいに唱えるより、日本の将棋をよく勉強して、政治に活用したらどうだ」
 「お前らは日本をどうするつもりなんだ。生かすのか殺すのか、はっきりしてくれ。生かすなら、日本将棋にならって人材を登用するがいい。殺すというなら、オレは1人になっても抵抗する。日本が負けたのは、武器がなかったせいだ。オレはよその飛行機を分捕ってきて、お前らの陣地の突っ込んでやる」
                        (升田幸三『名人に香車を引いた男』)

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