じじぃの「国際社会に乗り遅れる日本?清貧に生きるべし」

孔子学院に 米市民が「ノー」 動画 YouTube
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孔子的一生 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=_Vr-X1E8QtA&feature=related
こども論語 動画 YouTube
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孔子学院、いま世界で329拠点 Confucius Institutes Total 329 in the World 2010.06.17 JBpress
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/3758
次回の知ってるつもり?!
2001/4/22 放送 孔子
http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/010422.html
孔健 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
孔健(コウ・ケン/孔祥林、1958年-)は、中華人民共和国出身の作家、孔子研究家、SBI大学院大学教授、日中関係評論家。孔子の第75代子孫である。

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『清貧に生きるべし−なぜ日本人は堕落してしまったのか?』 孔健/著 二見書房 1993年発行 (一部抜粋しています)
"沈黙は金なり"の日本人 国際社会に乗り遅れるのこと
ニューヨークでは、日本人の一人歩きをカモにする詐欺がある。紙袋を持った男が日本人にぶつかり、紙袋を落とす。ハッと驚く日本人に、男は法外なお金を要求する。するとその日本人は"なぜ"という問いかけも忘れて、お金で何とか解決できるならそれでよいというケースで対応する。言葉がわかるわからないの問題ではなく、そこで湧くのは"悪いことをしてしまった"という思いらしい。
これが中国人だと、こうはいかない。要求してくる金額を確認し、「そんなに安くていいのか。いや、その倍額を払いましょう。ついては持ち合せがないので、家まで一緒に来てください」とやる。このあたりで相手の男は、日本人と思ったのが中国人だったとわかり、すごすごと退散する。
これは、周りの人と自分との関係の持ち方の違いだと思う。"オカミ"に安全を保障された日本人。自分を守るためには、他の人々との関係に意を用いなければならない中国人。異民族が混じり合って意思ノの疎通が困難なアメリカ人。こう並べるとなお、はっきりする。
社交性ということを考えても、日本人はこうした対人関係の技術、作法を必要としていないように身受ける。祖父も父も、この土地を耕して、いま自分もそうしている。たぶん息子もそうするだろう。自分の周りの町や村も、昔からそう変わっていない。だから私とあなたの間には、口に出して確認し合うことは何もない。そういう社会だから、お互いが出会っても、お天気の話をするくらいのあいさつで充分。
中国人は、これでは生きていけない。己を主張すべきは主張し、さりげなく自分を売り込む技術に意をもちいる。洗練された社交性を身につけざるをえなかったのである。
国土は広大であるとはいえ、耕地面積は少なく、それも沿岸地方にかたよる。そのため人々は、近世になると外国に職を求めることが多くなった。中国人のアメリカ移民は1985年にはすでに100万人を超えて、メキシコ人に次ぐ第2位の位置を占めている。
ほとんどの中国人が労働力として海外に出向いた。初期のアメリカでは鉄路建設、鉱山開発。彼らは肉体労働による低賃金の外国生活を送ったのである。
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このように国の内外で自分を中心とするものの考え方で生きていくことを要求されると、やむをえず、社交というものが必要となるのである。
中国映画『赤いコーリャン』の主人公が言ったセリフに「豚になっても生き抜く」というのがある。日本人の人生観は"恥を知る"ことにあるらしいから、こんな考え方は理解できないだろう。
中華人民共和国の建国以前は、3度の食事も満足にとれず、飢えと渇きの生活を強いられてきた。国の外でも、残念ながら各国で抑圧されてきた。中国人が、いまこそすべてと考えるのは当然とも言える。今日お会いした人と、明日は約束できないけれども、いまのこの時間は大切にしなければならない。とすれば、必死で相手を知り、自分を知らせる術を身につける−−。
日本人のようにニヤニヤとして、お天気の話などしていられないのである。
欧米による支配構造がようやく終わる
冷戦構造が崩れてみると、イデオロギーによって作られた世界秩序は幻だったと、つくづく思い知らされた。
そして、混乱のなかから見えてきたのは、精神文化というものの大きさだったのである。
さらに言えば、欧米の支配は構造の下で、長い間押さえつけられてきたアジアの姿。欧米が生み出した物質文明に、すき間なく多いつくされた世界。その底で、それでも脈々と生きつづけた精神文化の、頼もしいしたたかさだった。
イデオロギー対立が終わる直前、アジアにはNIESと呼ばれる4小龍が登場している。それ以前から、物質文明のニューリーダーとでも呼ぶべき、日本という1大虎がいた。彼らが持っている資本主義は、欧米のそれとは違っているし、それぞれにまた違っている。ただ、儒教精神の伝統を持つことで、共通していた。
いま欧米でも、彼らの成功を、儒教文化圏という視点で捉える考え方が出てきている。私にとっては嬉しいことだ。そして、正しい視点だとも思う。
儒教精神がどのように経済活動につながっていったかは、日本を例にして、私は十分に検証したつもりだ。それは、儒教の本家である中国が解けなかったジレンマを、見事に解決していた。儒教による経済的成功の、1つの大きな例証と言える。
これらの断片的な事実を眺めているうちに、私はあることの思いいたった。儒教を共通項とした文化圏、経済圏の構築である。イデオロギーの時代のような対立はない。支配構造もない。そのようなつながりが、儒教という精神文化を基に置くことで、可能なのではあるまいか。
1大虎・4小龍と中国では、社会体制が違う。しかし、それはさしたる問題ではない。政治的な問題は、互いの国民に精神的なシンパシイがあるかぎり、やがては解決すると思うのである。つまり、精神文化による世界秩序の再構築が、最も的を射ている。これが私の、大枠での結論だ。
話を儒教文化圏に戻そう。
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北米やEC、ここまでは固まっている。次はアジアだ。旧ソ連、アラブ、南米、アフリカ・・・・。アジアにどこが続くかの予測は難しいが、条件が揃ったところから、順に安定への道を歩んでいくことになる。
北米やECは、政治主導で統一に向かった。アジアは、おそらく違うだろう。政治的な要素は加味されるにしても、根本は親和力だ。これまで外圧によって引き離されていた、いわば不自然な形を、自然な形に戻そうという見えざる力と言ってもよい。だからこそ、他の国に較べて、日本は努力が必要になる。そのの本が、事情は理解できるものの、アメリカから乳離れができない。この点、私はいささか不安なのである。
北米、EC、アジア、それぞれの特色を持った文化圏、経済圏が存在していい。これまでのような支配。被支配の図式さえなくなれば、独自の文化が花開くはずだ。日本の未来の場所は、そこまで考えれば、明らかになってくると思う。

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どうでもいい、じじぃの日記。
先日、図書館のなかで本巡りをしていたら、孔健著『清貧に生きるべし−なぜ日本人は堕落してしまったのか?』という本があった。
「清貧に生きるべし」か。書いているのは中国人だ。
中をパラパラ、めくって見ると「論語」の解説本だ。論語を通して日本の社会をなんだかんだと書いている。
本の発売が1993年だ。1993年といえば、中国では江沢民中国共産党国家主席に就任した年だった。ハンチントンの『文明の衝突』がアメリカで発売された年だった。
論語とは何なんだろうか?
近代哲学の創始者の一人デカルトの自著『方法序説』の中に「我思う、故に我あり」がある。
ハンチントンの『文明の衝突』では世界の文明は西欧文明、儒教文明、日本文明、 イスラム文明、ヒンズー文明、スラブ文明、 ラテン・アメリカ文明、アフリカ文明からなると書いている。日本は儒教文明に組みしない独立した1つの文明として扱っている。
福沢諭吉は『脱亜論』を書いた。しかし、渋沢栄一は「論語」を生涯の行動規範として生きた。
「徳は弧ならず、必ず隣あり」
今、「論語」の効用を説いた『于丹〈論語〉心得』は中国で1000万部の大ベストセラーだ。
孔健が「"沈黙は金なり"の日本人 国際社会に乗り遅れるのこと」、「欧米による支配構造がようやく終わる」など20年前に書いたことが、今でもそのまま通じるような感じがする。
論語に「己の欲せざるところを、人に施すことなかれ」と書いている。これに対し聖書のマタイ伝「人にせられんと思うことは、人にもまたそのごとくせよ。これは律法なり預言者なり」と書かれている。
論語は仏教の教えのようでもあり、聖書の教えのようにも見える。
しかし、デカルトから始まる近代哲学とはちょっと違うような気がする。
今年、発表された中国のGDPが約500兆円で日本を抜いて世界第2位になった。自信を身に付けた中国は今、全世界に孔子学院を作り、論語を広めようとしている。