じじぃの「人の死にざま_526_西田・幾」

西田幾多郎 - あのひと検索 SPYSEE
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西田幾多郎 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=6pfXYDxL54Q
西田幾多郎の思索−「日本文化の問題」をめぐって−
http://ocw.kyoto-u.ac.jp/nishida/fujita02.pdf
日本人は何を考えてきたのか 「近代を超えて 〜西田幾多郎と京都学派〜」 (追加) 2013年1月20日 NHK Eテレ
【出演】福岡伸一青山学院大学教授)、藤田正勝(京都大学教授)、植村和秀(京都産業大学教授)、三宅民夫アナウンサー
善の研究」で「純粋経験」の論理化につとめた西田幾多郎。人生苦の中で参禅し、西欧近代哲学の主客二分の認識を越える思想を産み出そうと苦闘していた。京都大学教授となった西田の下からは、田辺元三木清ら多数の人材が輩出し「京都学派」と呼ばれるようになる。
やがて戦争の時代、「近代の超克」を唱える西谷啓治ら4人の京都学派の哲学者に海軍省調査課長の高木惣吉が近づき、戦争の理論化を図った。その会合の様子を記した「大島メモ」が発見され、議論の内容が明らかになった。また、三木清は近衞文麿の昭和研究会に参加し、「東亜協同体」を主張するが、治安維持法違反で逮捕され、終戦直後に獄死する。
番組では、生物学者福岡伸一さんが、近代と格闘した西田幾多觔ゆかりの金沢、京都を訪ね、京都学派と戦争との関わりを考えていく。
http://www.nhk.or.jp/nihonjin/schedule/0120.html
西田幾多郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
西田幾多郎は日本を代表する哲学者。京都大学教授、名誉教授。京都学派の創始者
同郷の鈴木大拙、山本良吉、藤岡作太郎とは石川県専門学校(第四高等中学校の前身、のちの第四高等学校)以来の友人であり、西田、鈴木、藤岡の三人は加賀の三太郎と称された。
【経歴】
現在の石川県かほく市森(旧宇ノ気町森)に、西田得登、寅三の長男として生まれる。
若い時は、肉親の死、学歴での差別(東京大学における選科への待遇)、妻との一度の離縁など、多くの苦難を味わった。そのためか、大学を出た後は故郷に戻って中学の教師となり、同時に思索に耽った。その頃の思索が結晶となって、著名な『善の研究』(弘道館、1911年1月)となり、旧制高等学校の生徒にとって必読書となった。
鎌倉にて、尿毒症により急逝。法名は曠然院明道寸心居士。
西田幾多郎が散策した琵琶湖疏水沿いの道は「哲学の道」と呼ばれ、日本の道百選にも選ばれている。
【思想】
彼の哲学体系は西田哲学と呼ばれたが、このように体系にその名が付けられるのは日本の近代以降の哲学者の中では唯一と言って過言ではない。
西田は思想輸入的・文献学的なアプローチを取らず、先人らの思考法だけを学び独自に思想を展開させたがゆえに、彼の著作は一見すると独創的で難解である。しかし、禅の実践から抽出された独自の学風は文献学者、「哲学学者」への痛烈なアンチテーゼでもありえよう。一方、田辺元や高橋里美などから西田哲学はあまりにも宗教的であり、実践的でないという批判がなされた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
西田幾多郎(にしだきたろう) (1870-1945) 75歳で死亡 (一部抜粋しています)
昭和16年1月、西田幾多郎天皇に「歴史哲学について」を進講したが、その中で彼は、ファシズムリベラリズムは両立し得るもので、それは日本の皇室に具現している、と述べた。このとき、自分のことをいうには「西田は」といわなければならぬと注意されていたのに、彼は途中で「わしは、わしは」といい出した。
その3月に第2回文化勲章を受けたが、10月にはリューマチの大患にかかり、約10ヵ月病臥した。その後やや軽快して鎌倉極楽寺姥ヶ谷の別荘で思索と執筆生活をつづけていた。しかし、用紙、印刷は次第に不自由になり、岩波書店編集員の布川角左衛門によれば、「先生が老年になられるに従って、却(かえ)って意欲的になられ、論文の発表についても、ますます情熱的になられ、論文の発表についても、ますます情熱的になられたことであるが、せっかく原稿を書かれても容易に発表できないもどかしさを私に訴えられるようになった」
昭和20年5月18日、西田を訪ねたカトリック哲学者松本正夫に、西田は「時に戦争はいつ終わるかね」と訊(き)き、また「天王星は、どうなると思うかね」と訊いた。むろん敗戦を前提とした問いであった。松本が「ハイマート・ベウストザイン(郷土意識)としてなら残るかも知れませんね」と答えると、西田は膝をたたいて、「君、それだよ、それだよ」と、うなずき「天王星は、1地方国家の郷土意識に過ぎなくなるのだ」といった。村の鎮守の神様というところか。
1週間後、彼は病床についた。腎疾患であった。
死ぬ少し前に、彼は夫人に炭をすらせ、ゲーテの「旅人の夜の歌」を自分なりに訳したものを紙に書いた。
「見はるかす山の頂、梢には、風も動かず、鳥も鳴かず、まてしばし、やがて汝も休らん」
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その後、すぐに意識不明となり、これが西田の絶筆となった。6月7日午前4時に死去したが、医者も間に合わず、見守っていたのは妻と娘の2人だけであった。直接の死因は尿毒症であった。
仏教学者の鈴木大拙は西田と同郷、かつ四高の同窓で生涯の親友であったが、その悲嘆ぶりを知人の石井光雄はこう書いている。「7日の昼頃(中略)午餐(ごさん)を喫していると其処(そこ)へ鈴木先生が来られたと山妻が知らせて来た。
早速玄関に御迎えに出ると之(こ)れは大変、先生は靴も脱がず玄関の敷台に頭をうつ伏せに伏せてさめざめと泣いて居られ、私の顔を見らるるや否やワアーと一層激しく泣き出され『到頭西田死んだ』と云うて愈々(いよいよ)涙をぼろぼろ落として居られ、又再び敷台に頭を伏せて泣かるるばかりで其(その)顔色土灰の如く蒼ざめ、悲嘆の状は父母骨肉を失うも之れには及ぶまいと思えた」
B29の大群はこの日も焦土と化した大阪に大爆撃を加えていた。

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