じじぃの「人の死にざま_525_山本・権兵衛」

山本権兵衛 - あのひと検索 SPYSEE
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【5月8日配信】みんなで学ぼう!日本の軍閥 第2部第1話山本権兵衛〜海軍創設者の功と罪〜 杉田水脈 倉山満 【チャンネルくらら】 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=nhTBB9rQ_Ho
山本権兵衛/「坂の上の雲」人物列伝
http://www.sakanouenokumo.jp/yamamoto/
山本権兵衛 ウィキペディアWikipedia)より
山本權兵衛は、日本の武士、海軍軍人、政治家。階級・位階・勲等・功級・爵位は海軍大将従一位大勲位功一級伯爵。諱は盛武。進水式祝詞用に神主がつけた名前のごんのひょうえを通称にしていたが、本称は「ごんべえ」である。
海軍次官海軍大臣(第11・12・13代)、内閣総理大臣(第16・22代)、外務大臣(第37代)などを歴任した。
【経歴】
薩摩国鹿児島郡の鹿児島城下加治屋町(現・鹿児島市加治屋町)に薩摩藩士で右筆を勤めていた山本五百助盛萊の六男に生まれる。
明治31年(1898年)、西郷従道の推薦により47歳の若さで第2次山縣内閣の海相に就任し、その後は日露戦争終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして君臨した。 山本は「ロシア海軍に勝つ」という一点を当時の海軍の目標として、様々な施策を行った。「ロシア軍艦を全滅するためには、日本の軍艦も半分は沈める覚悟だ」とも公言している。
士官には留学を奨励し秋山真之広瀬武夫などの多数の青年士官を米国、英国、ロシアなど海外へ派遣した。士官の教育に力を入れると共に、能力ある兵卒は途中からでも士官になれる制度を作り、佐官まで昇進した者も数名出た。
国内の製鉄所・造船所を整備し、戦時における修理・補給体制を充実させた。 また当時の燃料としては最高級の英国炭を全艦船の燃料とて採用した。
ロシア海軍に勝てる見込みが立つまで開戦に反対し続け、用意が整ったと判断するや開戦に賛成した。 開戦直前には東郷平八郎連合艦隊司令長官に任命し、それまでの人事慣例を破るものと批判されたが、人事権は海軍大臣にあると断行した。明治天皇に理由を尋ねられ「東郷は運の良い男でありますので」と答えた逸話が残っている。明治37年(1904年)、東郷と同時に海軍大将に昇進した。
大正2年(1913年)、同じ薩摩閥の元老・大山巌の支持で山本に組閣の大命が下る。松方正義明治31年(1898年)1月に辞任して以来15年振りの薩摩出身者であり、2月20日に政友会を与党として内閣総理大臣に就任した。

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ファミリーヒストリー 「八木沼純子〜2人の総理大臣 激動の歳月」 2015年9月11日 NHK
カルガリーオリンピック、フィギュアスケートに出場した八木沼純子さん。
八木沼の先祖には2人の総理大臣、松方正義山本権兵衛がいる。明治から大正にかけ、近代日本の礎を築いた人物だ。そして祖父は、戦時中、外交官として活躍した。
祖父は、戦前の英国大使館勤務時代は、あの吉田茂の部下だった。さらに日独伊三国同盟など、歴史的瞬間にも立ち会っていた。しかし戦後、39歳の若さで亡くなる……。激動の歴史に巻き込まれた家族の歳月が浮かび上がる。
松方正義の七男乙彦。
八木沼純子さんの曽祖父です。乙彦もまた最高の教育を受けています。
明治35年 アメリハーバード大学に留学。後のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトと親交を結びます。ルーズベルトは乙彦を親しみを込め「オト」と呼ぶ仲でした。
帰国後、乙彦は日本石油常務次いで日本活動写真日活の社長に就任します。
そして、その乙彦が結婚した相手が松方家と同じ薩摩出身で海軍大臣を務めていた山本権兵衛の五女登美でした。
http://dogatch.jp/news/nhk/35138
『新装版 海軍経営者 山本権兵衛 千早正隆/著 小社刊 2009年発行
英雄には2種類ある。生まれながらの英雄と、見出された英雄と。東郷平八郎は間違いなく後者だった。ときの海軍大臣山本権兵衛は、閑職にあった東郷を連合艦隊司令長官に抜擢。周囲の度肝を抜いたこの人事が、日露海戦の勝利につながった。
権兵衛は人事、技術開発、組織再編など、あらゆる面から、海軍を大改革し、史上類を見ない短期間で、世界一流といわれるレベルにまで引き上げた立役者。
自らも連合艦隊の参謀を務めた著者千早正隆氏は。「近代海軍を建設したばかりでなく、それに彼の精神を吹き込み、永続性を持たせようとした」権兵衛のなかに、「卓越した経営者」の資質を見たのである。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
山本権兵衛(やまもとごんべえ) (1852-1933) 81歳で死亡 (一部抜粋しています)
昭和8年3月、海軍大将、山本権兵衛前立腺肥大症−−おそらくはガン−−にかかって病臥し、妻の登喜子もまた2階に病臥していた。
3月末、権兵衛は医者から妻がガンであることを教えられると、豪胆無比のこの老人は顔面蒼白になり、やがて椅子のまま2階に運んでもらい、涙を流しながら長年の労苦をねぎらう言葉をかけた。
登喜子は、明治11年品川遊郭にいたのを彼が脱廊させて妻とした女性であったが、爾来50有余年、その間2度も首相夫人という座に坐りながら、ほとんど表に出ず、よく夫につくした賢夫人であった。
登喜子は3月30日、この世を去った。そして、その年の12月8日、権兵衛も死んだ。
その日から8年後の昭和16年12月8日、彼の作り上げた日本海軍は真珠湾を攻撃するに至る。

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