じじぃの「人の死にざま_1572_松方・正義(明治の総理大臣)」

PK Funny - 貴族の血を引くやんごとなきお家柄のセレブ有名人たち 動画 Youtube
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松方正義

ファミリーヒストリー 「八木沼純子〜2人の総理大臣 激動の歳月」 2015年9月11日 NHK
カルガリーオリンピック、フィギュアスケートに出場した八木沼純子さん。
八木沼の先祖には2人の総理大臣、松方正義山本権兵衛がいる。明治から大正にかけ、近代日本の礎を築いた人物だ。そして祖父は、戦時中、外交官として活躍した。
祖父は、戦前の英国大使館勤務時代は、あの吉田茂の部下だった。さらに日独伊三国同盟など、歴史的瞬間にも立ち会っていた。しかし戦後、39歳の若さで亡くなる……。激動の歴史に巻き込まれた家族の歳月が浮かび上がる。
http://dogatch.jp/news/nhk/35138
松方正義 ウィキペディアWikipedia)より
松方 正義(まつかた まさよし、天保6年2月25日(1835年3月23日) - 大正13年1924年)7月2日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。幼名は金次郎。通称は助左衛門。号は海東。
明治期の日本において内閣総理大臣を2度(第4・6代)務めるとともに大蔵卿、大蔵大臣(初・第2・第3・第4・第6・第8・第11代)を長期間務めて日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。また、晩年は元老、内大臣として政局に関与し影響力を行使した。

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2015年9月11日 NHK ファミリーヒストリー 「八木沼純子〜2人の総理大臣 激動の歳月」 より
明治から大正にかけて、近代日本の礎を築いた2人の総理大臣、松方正義(第4代・6代)と山本権兵衛(第16代・22代)。
この2人を先祖にもつ元アスリートがいます。
1988年 カルガリー・オリンピック。14歳の若さでフィギュア・スケートに出場した八木沼純子さんです。
東京品川 7月4日。都内のホテル。
明治の宰相 松方正義の子孫たちの親睦会が開かれました。正義の91年の命日に合せての集まりです。
この会は正義の号「海東」にちなみ「海東会」と呼ばれています。
純子さんも幼い頃この会によく参加し親戚との交流を深めました。
松方正義には妻の他別の3人の女性との間に22人の子供がいました。今では正義の子孫はおよそ600人にもなります。
松方正義 ー 乙彦 ー 米子 ー 東洋子 ー 八木沼純子
まずは、八木沼純子さんの母方の高祖父松方正義の人生からひもときます。
松方正義は1835年 鹿児島の城下町に住む下級武士の四男として生まれました。正義が生まれ育った屋敷跡は小さな公園として残されています。
正義は13歳の頃から、藩校造士館に通い始めその秀才ぶりが評判になります。
しかし、このころ父が他界。一家の生活は困窮します。
正義の幼少期について触れている一冊の書籍があります。
『絹と武士』。著者はハル・松方・ライシャワー
八木沼純子さんの祖母米子のいとこでライシャワー元駐日アメリカ大使の妻です。
正義は周囲に支えられながら、懸命に勉強を続けました。
正義18歳の夏浦賀沖にペリーが来航。
幕末の動乱が幕を開けます。
そんな中、思わぬ事件が正義の大きな転機となります。
1862年 薩摩藩主の父島津久光が江戸から京都の藩邸に帰る途中横浜生麦にさしかかります。
正義は駕籠脇として他の5人の藩士と共に護衛にあたっていました。そこに、馬に乗った4人のイギリス人が行列を割って進んできたのです。
藩士が斬りかかり1人を殺害してしまいます。
生麦事件」での正義の冷静な対応がその後の出世のきっかけになったといいます。
その後、正義は長崎に派遣され軍艦や武器を買い付ける重要な任務に就きます。
正義が手に入れた武器は、新政府軍の兵士たちに手渡され戊辰戦争の勝利に貢献したのです。
そして、明治維新後。
正義は新政府の大蔵卿として財政面に手腕を発揮します。日本銀行日銀の設立や金本位制の導入を実現しました。
そして、明治24年と29年の2度内閣総理大臣に就任したのです。
昭和2年まで、ここに正義の邸宅がありました。
当時東京で最も美しい屋敷の一つと言われ奇岩や池築山をめぐる小道が特徴でした。
正義は妻との間の11人の子供の他別の女性3人との間に生まれた11人の子供も引き取り一緒に育てました。
正義は全ての子供たちにできるかぎりの教育を受けさせます。
三男幸次郎は川崎造船所初代社長。
彼が世界各地で買い求めた美術品がいわゆる松方コレクション。それを展示するために建設されたのが国立西洋美術館です。
四男正雄は大阪タイガース現在の阪神タイガース初代会長です。
そして、末っ子の三郎はジャーナリストでもあり登山家。
昭和45年 植村直己ら日本人によるエベレスト初登頂では登山隊の隊長を務めました。
更に、正義は向学心に燃える優秀な若者を支援するため奨学金を設立しています。
正義が関わった奨学金の一つです。鹿児島から上京してくる大学生に寮を提供し学費を援助しています。
去年、ノーベル物理学賞を受賞した赤勇さんも奨学金をもらった一人です。
正義の七男乙彦。
八木沼純子さんの曽祖父です。乙彦もまた最高の教育を受けています。
明治35年 アメリハーバード大学に留学。
後のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトと親交を結びます。ルーズベルトは乙彦を親しみを込め「オト」と呼ぶ仲でした。
帰国後、乙彦は日本石油常務次いで日本活動写真日活の社長に就任します。
そして、その乙彦が結婚した相手が松方家と同じ薩摩出身で海軍大臣を務めていた山本権兵衛の五女登美でした。
山本権兵衛日露戦争勝利の立て役者として知られています。東郷平八郎連合艦隊司令長官に抜てきしたのも権兵衛でした。
その後、大正2年と12年の2度 内閣総理大臣に就任しています。
その2度目は関東大震災の翌日に就任。復旧の陣頭指揮にあたりました。
乙彦は登美との間に4人の子供を授かりました。
その長女米子が八木沼純子さんの祖母です。
乙彦はアメリカから優秀な教師を呼び寄せ子供たちに英語を学ばせました。
米子は兄弟の中でも特に語学の才能がありました。やがて、聖心女学院を卒業。
外交官に嫁ぐことになります。その相手こそ樺山資英。当時28歳。
イギリス留学を経て外務省に入省したばかりでした。
資英に関しては多くの謎がありました。
鹿児島出身ということ以外本籍地親戚がいるのかどうかも分かっていませんでした。
資英の長男英利さん。
八木沼純子さんの伯父です。
資英は一人息子で親戚づきあいがなかったため樺山家についての情報が途切れてしまいました。
戸籍を調べようにも資英が籍を置いていた品川区役所が昭和24年、火災に遭い戸籍は消失していました。
そこで、資英の父可也を調べることにします。
実は、可也は昭和初期鹿児島市長を務めていました。手がかりを求めて鹿児島市役所に向かいます。
今も、可也の写真が市長室に飾られているといいます。可也は路面電車やバスなど交通網の整備に貢献したといいます。
ところが、その後外務省で資英の人事記録が見つかりました。
それによって樺山家の本籍も分かったのです。記録によると樺山家の本籍は鹿児島県薩摩郡藺牟田。
現在、そこは山あいの小さな集落でした。
地元の人たちに樺山家について尋ねました。役場の元職員で地域に詳しい人がいると聞き訪ねてみました。
樺山家があった場所に案内してもらいました。そこは今ゲートボール場になっていました。
木陰に小さな石碑が建てられていました。
さまざまな取材から、次第に樺山家の歴史が明らかになりました。
まずは、純子さんの曽祖父樺山可也の人生を振り返ります。
樺山可也は明治9年 医者の次男として生まれました。ところが、翌年父が西南戦争に西郷軍の軍医として出征。戦死します。
可也は貧しい少年時代を送りました。そんな暮らしの中で歯を食いしばって努力します。
「勉強すれば道は開ける」。
教科書を買う金がなかったため友達から借りて書き写し勉強しました。
可也は海軍兵学校を目指します。
授業料が免除され毎月手当も支給されるため競争率数十倍の難関でした。その試験に見事合格。
その後、大尉として迎えた日露戦争では巡洋艦に乗り込み日本海海戦を戦いました。
一人前の軍人になった可也。
妻を迎え一人息子資英を授かります。後の純子さんの祖父です。