阿倍仲麻呂 - あのひと検索 SPYSEE
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百人一首 阿倍仲麻呂 画像
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阿倍仲麻呂 ウィキペディア(Wikipedia)より
阿倍仲麻呂は奈良時代の遣唐留学生である。姓は朝臣。中務大輔・阿倍船守の子。弟に阿倍帯麻呂がいる。
唐で科挙に合格し唐朝諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせなかった。中国名は仲満のち晁衡(ちょうこう、または朝衡)。
【和歌及び漢詩】
歌人として『古今和歌集』『玉葉和歌集』『続拾遺和歌集』にそれぞれ1首ずつ入首したとされるが、『続拾遺和歌集』の1首は『万葉集』に採られている阿部虫麻呂の作品を誤って仲麻呂の歌として採録したもの。
仲麻呂の作品としては、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」が百人一首にも選ばれている。この歌を詠んだ経緯については、天平勝宝5年(753年)帰国する仲麻呂を送別する宴席において、王維ら友人の前で日本語で詠ったなど諸説ある。
現在、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と江蘇省鎮江にある北固山の歌碑には、この歌を漢詩の五言絶句の形で詠ったものが刻まれている。
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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ) (698-770) 72歳で死亡 (一部抜粋しています)
阿倍仲麻呂は養老元年(717年)19歳のとき、総員557人の第八次遣唐使中の留学生の一人として、吉備真備(きびのまきび)らとともに唐の長安に渡り、玄宗皇帝に仕え、次第に昇進した。
彼はその後。第九次遣唐使とともに帰国することを請うたが玄宗の許すところとならず、さらに第十次遣唐使の帰国(753年)に同行することを許されたとき、すでに55歳となっていた。
その秋、揚子江河口まで来て彼の歌ったのが、有名な、
「あまのはらふりさけみればかすがなるみかさの山にいでし月かも」
である。36年異郷にあっても、彼は日本の歌ぶりをわすれてはいなかったのである。
しかしこの船は遭難し、行方不明になったという報を聞いた親友の大詩人李白は「晁卿衡(仲麻呂のこと)を嘆く」と題し、
「日本の晁卿帝都を辞す
征帆一片蓬壷(ほうこ)を遶(めぐ)る
明月帰らず碧海に沈む
白雲愁色蒼梧に満つ」
と、哀悼した。
しかし仲麻呂をふくめて180余人を乗せた船は沈まず、安南(ベトナム)まで漂流し、安南の現地人に170余人まで殺されたが、仲麻呂はあやうく逃れ、2年後長安に帰った。
その後彼は、安禄山の乱や楊貴妃の悲劇などを見る羽目になり、ついに日本に帰ることが出来ず、唐の大歴5年1月、某今日の思いにかられつつ長安で死んだ。
同じ年に杜甫が死んだ。
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阿倍仲麻呂 Google 検索
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