じじぃの「人の死にざま_490_横山・や」

横山やすし - あのひと検索 SPYSEE
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昭和時代のやすきよ漫才 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=A80--YAmhZc
やすきよ漫才 復活宣言 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ZDFu1drXUxY&feature=related
横山やすし フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
横山やすし(本名:木村雄二、1944年3月18日-1996年1月21日)は、かつて吉本興業・大阪本社(現・よしもとクリエイティブ・エージェンシー・大阪本部)に所属していた漫才師、タレント。身長163cm(本人談)。血液型B型。愛称は「やっさん」。
西川きよしとのコンビでの漫才は、漫才ブームの到来と共に記録的な人気を博し「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになった。親友に中学時代の同級生で競艇選手の野中和夫がいる。
初妻(のちに離婚)との間に俳優の木村一八(長男)と長女をもうけた。再婚した妻とはやすしの解雇等を挟み、逝去まで連れ添った。エステティシャンで漫才師さゆみ・ひかり木村ひかり(次女)は、後妻との子である。
【来歴・生涯】
高知県宿毛市沖の島にて、広瀬地区の旅館で仲居のアルバイトをしていた小川姓の島民女性と、島へ巡業に来た旅回り芸人一座の団員との間に私生児として生まれる。
横山ノックから新しい相方(後のバラクーダの岡本圭司)を世話され、内弟子修行を上がると生活苦に苛まれ、昼はアルバイトでデパートの展示場の模型を作り、夜は無免許でスクーターの白タクシーを行い生活費を稼いだという。
西川きよしと1966年に「やすしきよし」のコンビ名でデビューする。
2人は周りの漫才コンビを評価、採点し徹底的に分析・分類した。そして他の漫才師がやっていない「動き」というスタイルを見つけ、またデフォルメし、舞台の中央にあるマイクから離れたりするという革新的な漫才を編み出した。やすしがメガネを探す有名なネタもこの流れで出来たものである。やすきよはこの流れから全国制覇を目指したが、同じ動きの笑いを主体とするコント55号とテレビ中継で同じ舞台を踏んだとき、やすしは「こいつらを倒さんかったら日本一には立てん」と思ったという。その後また名古屋の大須演芸場で同じテレビ中継の舞台を踏んだが、コント55号が舞台を左右に動き回るのでテレビカメラが追いつけず、これを見たやすしが「チャンスや」ときよしに思いついた秘策を告げた。それは逆に動かないことであり、その違いを明確にすることでテレビ中継の視聴者を味方につけたという。この流れをもって1970年には第5回上方漫才大賞を受賞した。
1986年にきよしが第14回参議院議員通常選挙に出馬し当選。やすしはきよしの政界進出を"裏切り"と強く反発していたという。
1995年7月18日には京都府八幡市石清水八幡宮での太鼓まつりのゲストとして姿を見せていたが、極度に痩せ、体もふらついた状態で、当時の祭りの参加者は往年の姿との落差を目の当たりにして驚いたという。さらにその年の10月10日には兵庫県芦屋市照善寺での落慶法要イベントで、桂福団治と即興漫才を披露。これが最後の公の姿になった。本番前には「ボートとタクシーの話をしたろかな」と福団治に声をかけたという。
1996年1月21日の夜、摂津市の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれたが、すでに心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。51歳没。死去前日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院で診てもらおうと思った矢先の死だった。最後の言葉は夫人と娘に対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。

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文藝春秋 2010年8月号
的中した予言50 横山やすし 【執筆者】澤田隆治(メディア・プロヂューサー) (一部抜粋しています)
男は1着取らなアカン
なんでもランキングする世の中だが、「上方の芸人」のトップに挙げられるのは、破天荒な生きざまがドラマで歌になっている初代・桂春団治喜寿になる私でもレコードでしか知らない落語家だが、いまやその名と行状は伝説化していて、この地位はゆるぎそうもないのだ。で、その次は横山やすしでどうやらきまりつつある。最近の芸人はムチャをしなくなっているので、対抗馬がいないせいもあるが、小林信彦さんの『天才 横山やすし』によるところが大きいと私は思っている。その横山やすしの口ぐせが「男は1着取らなアカン」だったから「なんでわしが2着やねん」と文句を言われそうだが、ここはガマンしてもらうしかない。
『オレは浪花の漫才師』と自分で歌までしてしまった横山やすしの漫才師としてのピークは、1980年12月、『花王名人劇場』の番組収録の「やすしきよしのマンザイ独演会」を、文化庁芸術祭の大衆部門にエントリーし、見事に受賞した前後の1年ぐらいの間だったと私は思う。それは、社会現象「漫才ブーム」として昭和史に記録されている期間と重なる。この収録の時、やすしは「澤田はん、わしは1番鳥にいきまっせ」と舞台の袖にいた私の耳許でささやいて舞台に出ていった。
横山やすしが中学生のころ、私が担当していたラジオの聴衆者参加番組『漫才教室』の予選会に、同級生とコンビを組んでやってきた木村雄二少年、その日から30年もの間、横山やすしと私は、いつも出会ったころと同じような立場だったから、気安く喋れる相手だったのだろうか。会えば私になんでも本音で喋ってくれたものだ。
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そんな横山やすしの大量にあるボートレースの記録映像をやすしの解説つきでプレビューしたことがある。やすしは過去のどのレース展開も克明に記憶していて、2隻のボートが1着を競いあっているようにみえるレースで、突然やすしのボートがコースの外へ飛び出してしまうので「なんで行かへんのや、勝てそうなのに」ときくと「あそこで無理して競ったら転覆させられて一巻の終りやから」と冷静だった。「そうか、毎回優勝を狙って無理なレースをしているわけではないのだ」と私は安心したものだ。
そんなやっさんの口ぐせが予言めいて思えるのは、昨今の芸人たちに勝負に対する執念がないからだ。
いまや年の暮れの一大イベントとして定着した「M-1グランプリ」を横山やすしは知ることなくあの世へ旅立った。企画したのが、やすしのトラブルのほとんどを処理してきた木村政雄とあっては、じっとしているわけはないだろう。生きていれば決勝戦会場に乗り込んで「お前らそんな漫才しとって1着取れると思てんのか、ドアホ! ボケ! カス!」と一発カマし、もはや伝説とサブローのものまねでしかしらない若い漫才師達を萎縮させるに違いない。
そんな風に思ってしまうのも、決戦場に集まったテレビではもうおなじみの協力コンビかたは"1位を取りにいく"という強い意志が感じられないからだ。そんなこと考えていたら、意識ばかり先行してガチガチになってしまうと反論されるに違いないが、難易度の高い技術で1位に挑戦する体操競技フィギュアスケートの選手のことを考えればいい。
グランプリに出るだけでスターの座を約束されているここ数年の傾向も影響しているのだろう。そんなヤワな考えでスターとして芸能界の荒波をどう乗りこえていけるのだ。
ここは1つ、やっさんに降臨してもらって「喝」を入れてもらうしかないか。

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