じじぃの「人の死にざま_489_赤塚・不二夫」

赤塚不二夫 - あのひと検索 SPYSEE
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ひみつのアッコちゃん ED 動画 YouTube
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赤塚不二夫とトンデモない仲間達!!1/8 動画 YouTube
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赤塚不二夫 ウィキペディアWikipedia) より
赤塚不二夫(本名:赤塚藤雄、1935年9月14日-2008年8月2日)は、日本の漫画家。血液型A型。
1956年に貸本漫画『嵐をこえて』でデビュー。その後石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、1962年に『ひみつのアッコちゃん』、『おそ松くん』のヒットで一躍人気作家となる。1967年に『天才バカボン』がヒットし「ギャグまんがの王様」と謳われた。
【来歴】
1935年(昭和10年)、満州国熱河省に生まれ、6人兄弟の長男として育つ。後に「バカボンのパパ」のモデルとなった父親は、憲兵やスパイとして僻地で宣撫工作を行う特務機関員をしていた。
満州にいた頃は父親から漫画を読むことを禁じられ、引き揚げ後は一家が生活苦の状態にあった赤塚は、同級生が『のらくろ』や『冒険ダン吉』の話をしていてもついていけなかったが、2学期の時、貸本屋で5円で漫画を借りて読んだところ、すぐに夢中となった。その頃に手塚治虫の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意、漫画の執筆に没頭することとなった。12歳の時には『ダイヤモンド島』というSF長編漫画を描き、大阪の三春書房という出版社へ最初の持ち込みを行った。
1949年(昭和24年)、父親が帰国。父の故郷の新潟県新潟市に移り中学校を卒業後、金銭的な問題のために高校への進学は断念。少しでも絵に関係した仕事に就きたいという思いから、映画の看板を制作する市内の看板屋に就職した。仕事柄あらゆる映画を鑑賞することとなり、バスター・キートンチャーリー・チャップリンの喜劇に感銘を受けた。同時に『漫画少年』への投稿も始めた。
18歳の時に上京。東京都江戸川区の化学工場に勤務しながら『漫画少年』へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人となった。
その後、赤塚も上京した石森を手伝う形で鈴木伸一藤子不二雄らのいた豊島区のトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。のちに赤塚の母も上京し、しばらくの間同居した。後にブレイン役として長く赤塚を支えた長谷邦夫ともこの頃知り合う。当時、赤塚はトキワ荘一の美青年として認識されていた。
当時の赤塚は石森のアシスタントの傍ら、数か月に一本程度の少女漫画を描いていた。横山光輝の出張アシスタントも経験。1958年、作家不足に陥った『少女クラブ』増刊号で1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石森との合作を企画。合作ペンネーム「いずみあすか」名義で作品を発表した。
1962年(昭和37年)、『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」、『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始し、一躍人気作家となる。1964年(昭和39年)、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。1965年(昭和40年)、長谷、古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎等と東京都新宿区十二社にフジオ・プロダクションを設立。この年に長女のりえ子が誕生。また1963年に、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加。1966年(昭和41年)には『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作により毎日放送・NET(現:テレビ朝日)系でテレビアニメ化された。
1967年(昭和42年)、『週刊少年マガジン』(講談社)にて「天才バカボン」を発表。天才ギャグ作家として時代の寵児となる。1969年(昭和44年)に『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』、1971年(昭和46年)に『天才バカボン』と、代表作が相次いでテレビアニメ化された。以後2010年現在までに『天才バカボン』は4度、『ひみつのアッコちゃん』は3度、『おそ松くん』『もーれつア太郎』が2度にわたりテレビアニメ化されている。
1972年(昭和47年)、『天才バカボン』で文藝春秋漫画賞を受賞。
1987年(昭和62年)、多忙を極める中アルコール依存症に陥っていた赤塚のサポートを、別れた最初の妻・登茂子が勧めたことにより、眞知子夫人と結婚。結婚記者会見には登茂子とりえ子も同席した。
以後入退院を繰り返すも依存症から回復せず、このため1994年(平成6年)、長年アイデアブレーンとして赤塚を支えてきた長谷がやむなくフジオプロを脱退した。1998年に食道がんが見つかってからも酒は手放さなかったという。
2006年(平成18年)7月、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急逝。
2年後の2008年(平成20年)8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去した。72歳没。
赤塚は2004年から意識不明のまま植物状態にあったという。2008年2月24日にはちばてつやが赤塚を見舞い、写真をブログで公開していた(後に似顔絵に差し替えられた)。また赤塚の死去の3日前の7月30日に、最初の妻であり、りえ子の母である登茂子が死去していた事が後に報じられた。

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バカボンのパパよりバカなパパ 赤塚不二夫とレレレな家族』 赤塚りえ子/著 徳間書店 2010年発行 (一部抜粋しています)
「おまえら、オレにもやらせろ!」
パパたちは普通の人の2倍は働いたのだと思う。なにしろ、平日はずっと仕事場に泊りこみ、土曜日の遅い午後に仕事が終わり、やっとみんな家に帰れるというのだから。
でも、寂しがり屋のパパがそれで終わるわけはない。
「古谷さん、これから新宿で餃子パーティーをやるから、きみもいろよ」
「おれ、今日帰らないと離婚されちゃうよ」
そう言って、古谷さんは階段を下りて行く。すると、パパが上から言い放つ。
「このマイホーム主義者!」
パパはとにかく遊びが大好き。仲間を巻き込んで、仕事場でもどこでも遊び場に変えてしまう。
たとえば、徹夜仕事が続いていると、当然みんな睡魔に襲われる。そこで、最初は新聞紙を丸めてお互いの頭を叩いていたらしい。でもそれじゃ面白くないというので、パパはやおらベルトをはずし誰かを叩く。そして、終いにはみんな一緒にベルトで叩き合いになる。
神田神保町の旅館でカンズメになって仕事をしていたときには、眠気覚ましに編集者がレモンを差し入れてくれた。パパたちはそれを一番酸っぱくない顔をして食べられる奴が勝ち、というので競い合う。
「うん、すっぱくない」
「全然すっぱくない」
かじっては、ニコニコして笑う。ざっと、こんな具合だ。
みんなとりわけイタズラ好きになったのは、フジオ・プロが十二社のスタジオ・ゼロにあった頃からだという。
トイレに入っているとドアの下から水をかけられる。このイタズラもそのうちエスカレートして、上からバケツで水をかけるようになった。いつものように北見さんがトイレに入ったので、上から水をぶっかけた。反応がない。
「あいつ、中で傘を差してやがったんだよ!」
と、パパはうれしそうに言う。前に一度ずぶ濡れになったことがあった北見さんは、今回は中で傘を差していたのだ。わたしは、ニヤニヤと勝ち誇った顔で出てきた北見さんの姿を想像した。
横山さんにいたっては、雨どいを伝ってビルの外壁をよじ登り、パパが座っている後ろの窓から「バァー!」と顔を出したという。
フジオ・プロは3階にある。さすがのみんなも唖然として笑えなかったそうだ。ここで大笑いしたら、そのまま落っこちてしまうんじゃないかと。
「みんな命懸けで面白いことをしようとしていたんだ」
と、北見さんは笑う。
フジオ・プロでは毎日どんな面白いことが起こるかわからない。真夜中でも何か面白いことが突然始まるので下手に帰ってしまうと、次の日、前日にあった楽しいことを聞かされ、残念な思いをする。だから、スタッフももったいなくてなかなか家に帰れなかったらしい。
フジオ・プロはその頃、大がかりな社員旅行を行った。社員の他にも、関係者や日頃お世話になっている人たち、小野ヤスシさんなど友人も同行し、その賑やかさたる大変なものだったという。
浜名湖・館山寺温泉のホテルに泊ったときのこと。
アシスタントふたりがいちゃいちゃしているようだと、パパに報告があった。
「けしからんな、あいつら。冗談じゃないよ」
「赤塚センセイはビシッと言わないから、ナメた真似するんだよ」
と年長のアシスタントがパパに言う。
「いや、今度は殴る。殴るぐらいのことをする」
パパを先頭に、野次馬5、6人が現場に乗り込むことにした。様子を見に行くと、案の定、5つぐらい向こうの部屋で若い男女が何かをやっていた。
「ほーら。さぁ、センセイどうする?」
「ようし、オレが乗りこんで言ってやる!」
パパはガラッと戸を開けると、ふたりは、いちゃいちゃの真っ最中。
パパはマジに言い放つ。
「おまえら、いいなぁ! オレにもやらせろ!」
その宴会はすでにたけなわを通り越して、どんちゃん騒ぎとなっていた。バカ笑いする者、踊り出す者。手がつけられない状態になっていたのだろう。
ふいに庭の向こうから怒鳴り声がした。
「おまえら、うるさいぞ!」
こっちも黙っていなかった。
「なんだ文句あるかっ! オレたちは『永井豪ダイナミックプロ』だっ!」
この小野さんのギャクはパパもひどく喜び、その後も何度となく使っていたという。
入退院を繰り返す人気者
食道ガンの手術後、パパは半年ほど断酒していたが、いつの間にか、またお酒を呑み出した。眞知子さんも担当の先生も困っていた。退院してからはあまりリハビリをしなかったので筋力が戻らず、人の介助がないと転んでしまいそうだった。小さい子どものように目が離せなくなってしまった。
実際、転んでは歯を折ったり、目の上を打って腫れてお岩さんのようになったり、鎖骨を折ってランドセルのようなギプスをしたり、頭を打ったときは、急性硬膜下血腫を起こし開頭手術まで行った。眞知子さんの懸命な努力をよそに、傷が絶えなかった。
パパはお酒を呑み続け、ひどくなると入院して点滴を受けてお酒を抜く。いわゆるウォッシュアウトだ。ところが、具合が良くなって退院するとまたお酒を呑み出すので始末に負えず、入退院を繰り返す羽目になった。結果、仕事を病室でやることも多々あった。
おかげで、病院の先生や看護婦さんたちとはすっかり顔なじみになり、「赤塚センセイはかわいい」と人気者になった。「オレは産婦人科以外、全部の科にかかった」というのがパパの自慢だ。パパは部屋からの見晴らしもいいこの病院が気に入りだった。
そんなパパにもわたしの卒業式の晴れ着を見てもらいたくて、ガウン一式を日本へ持ち帰った。お酒を抜くため入院していたパパは、わたしがその日帰国することを知らなかった。驚かそうと病室の外で角帽とガウン姿に着替え、いきなり病室へ入った。パパはわたしのその姿を見るなりびっくりしたようで、目がちょっと大きくなった。それから顔をほころばせたパパは、ベッドから降りて来た。パパは何も言わなかった。
眞知子さんがカメラを向け、パパとわたしの写真を撮ろうとしたとき、珍しくパパから手をつないできた。そして強くギュッとわたしの手を握った。それがすべてを表わしていた。言葉も何もいらない。わたしはそれだけで十分だった。

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赤塚不二夫の言葉
「てめえがいちばんバカになればいいの」
「ひとつのマンガを作るって、そういうイマジネーションをムチャクチャ消費するの。懸命に夢を見て、その夢を紙の上に実際に描かなきゃならない」

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