じじぃの「人の死にざま_485_青木・繁」

青木繁 - あのひと検索 SPYSEE
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「没後100年・青木繁・生と死の絵画」(info.) 動画 YouTube
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青木繁 動画 YouTube
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青木繁
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「わだつみのいろこの宮」 Google 検索
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日曜美術館 「青木繁文人たちの愛した画家〜」 (追加) 2011年8月21日 NHK Eテレ
【出演】俳人 長谷川櫂石橋美術館学芸課長 森山秀子 【司会】千住明森田美由紀
明治後期の画壇を彗(すい)星のように駆け抜け、28歳という若さで亡くなった、夭折(ようせつ)の天才画家・青木繁。その没後100年を記念した回顧展が開かれています。代表作「海の幸」を始め、油彩70点、水彩や素描170点。さらに、書簡、写真など、300点にのぼる空前の規模の出展です。
青木は生涯、作品のテーマを、古事記日本書紀などに描かれた「神話」の世界に求めていました。写実的な風景画や美人画が主流だった当時の画壇は、神話の世界を豊かな想像力で表現した青木の作品に驚愕(がく)しました。さらにその作品は、浪漫(ロマン)主義文学を展開していた明治30年代の文壇にも大きな衝撃を与えます。夏目漱石をはじめ蒲原有明与謝野鉄幹など多くの文人たちに称賛を持って迎えられました。青木の魅力とは一体何だったのでしょうか。
その作品や残された文章、親交を結んだ文人との関わりから、青木の生涯を見つめます。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2011/0821/index.html
青木繁 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
青木繁は日本の明治期の洋画家である。
『海の幸』の作者として知られる繁は、近代日本美術史の上でもっとも著名な洋画家の一人である。若くして日本美術史上に残る有名作を次々と描き上げた後、放浪生活に入り、満28歳の若さで没した繁の生涯は半ば伝説化している。短命だったこともあって残された作品の数は決して多くはなく、代表作『海の幸』を含め多かれ少なかれ未完成の作品が多い。しかし、日本の古代神話などをモチーフにした浪漫的色彩の濃い画風は西洋美術の物まねではない独自のものとして高く評価されている。
【人物・略歴】
繁は今の福岡県久留米市に、旧有馬藩士である青木廉吾の長男として生まれた。
繁は1899年(明治32年)、満16歳の時に中学校の学業を半ばで放棄して単身上京、画塾・不同舎に入って主宰者の小山正太郎に師事した。肺結核のため、麻布中学を中退。1900年(明治33年)、東京美術学校(のちの東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝から指導を受ける。1902年(明治35年)秋から翌年正月にかけて、久留米から上京していた友人・坂本らと群馬県妙義山や信州小諸方面へスケッチ旅行へ出かけている。これは無銭旅行に近い珍道中だったことが坂本の書簡などから窺えるが、繁はこの旅行中に多くの優れたスケッチを残している。1903年明治36年)に白馬会8回展に出品した『神話画稿』は白馬会賞を受賞した。『古事記』を愛読していた繁の作品には古代神話をモチーフにしたものが多く、題材、画風ともにラファエル前派などの19世紀イギリス絵画の影響が見られる。1904年(明治37年)夏、東京美術学校を卒業したばかりの繁は、坂本や画塾不同舎の生徒で繁の恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良(めら)に滞在した。『海の幸』はこの時描かれたもので、画中人物のうちただ1人鑑賞者と視線を合わせている人物のモデルは福田たねだとされている。この前後が繁の短い絶頂期であった。以後の繁は展覧会への入選もかなわず、私生活にも恵まれず放浪のうちに短い生涯を終えたのである。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
青木繁(あおきしげる (1882-1911) 28歳で死亡 (一部抜粋しています)
明治40年の「文展」に出品した青木の「わだつみのいろこの宮」はのちに「遺作展覧会」でこれを見た漱石を感心させた。漱石は書いている。
「・・・・それを仰ぎ見た時、いくら下から仰ぎ見ても恥ずかしくないという自覚があった。こんなものを仰ぎ見ては、自分の人格に関わるという気はちっとも起こらなかった、自分はその後所謂(いわゆる)大家の手になったものでこれと同じ程度の品位を有(も)つべきはずの画題に3、4度であった。けれども自分は決して仰ぎ見る気にならなかった」
しかし、この画壇はこの作品を黙殺した。一等賞7人、二等賞6人、三等賞10人で、「わだつみのいろこの宮」は、その三等賞の中の1つに過ぎなかった。
青木は自信があっただけに、怒りかつ絶望した。
最初から貧しい画家であった彼は、この作品を最後の展覧会出品作として故郷の久留米へ帰ったが、待ち受けていたのは窮乏その極にある家族であった。彼は生活のために悪戦線苦闘したが、友人坂本繁二郎が評したように、結局彼の一生は「非現実的な芸術の空気をもって現実と戦った悪戦丈(だけ)であった」
彼の数々の奇行乱行はこの苦闘の飛沫であった。
すでに肺患のきざしはあったが、明治43年に至って大喀血し、福岡の施療病院にはいらざるを得なくなった。
彼は姉妹宛てに手紙を書いた。
「・・・・爾来病辱(じらいびょうじょく)の上にかつぎ上げられたまま、前後左右身動きもならず、一両日は付添人も有之(これあり)候え共その後は参らず、食前痰壺持つにも息切れ便通にも必死の苦痛。
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 小生が苦しみ抜きたる10数年の生涯も技巧も光輝なく水の泡と消え候も、是不幸なる小生が宿世(しゅくせ)の為劫(いこう)にてや候べき。・・・・」
症状はみりみる悪化していったが、彼の生命への執着は鬼気迫るばかりであった。
翌年3月22日、弟の義雄が兄にのませようとして粉薬を少しこぼすと、青木は、それはおれの命の薬なのになぜこぼした、と涙を流して怒り、包み紙まで舐(な)めた。
25日朝には、生卵5個を一気に飲み、次にまた5個をつぶして丼(どんぶり)にいれ、それを飲もうとしてひといきいれた。と、ふいに右手をのばして宙をかきむしり、うう、と叫んで息絶えた。
すなわち3月25日午前7時、不出世の天才青木繁は万斛(ばんこく)の恨みをのんで、満28歳4ヵ月で、施療病院で息をひきとったのである。

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