じじぃの「神話伝説_01_明治天皇」

明治天皇 Emperor Meiji 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=23fmtoTdRmQ
明治天皇崩御 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=d29zvp1lc2k
明治天皇 ウィキペディアWikipedia)より
明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)は、日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は、祐宮(さちのみや)。お印は、永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代日本の指導者と仰がれた。その盛名により戦前・戦中には明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝 (Mutsuhito the Great) とも称された。
江戸開城から半年を経た明治元年10月13日、明治天皇は初めて江戸に行幸し、同日江戸は東京に、江戸城は東京城に改められた(東京奠都)。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869年)に再び東京に移り、以後は崩御まで東京に居住した。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店 (一部抜粋しています)
明治天皇 (1852 - 1912) 60歳で死亡
明治45年7月15日、枢密院の会議に親臨した明治天皇は、平素とちがって議事の途中居眠りをした。そのとき議長席にあった山県有朋は、軍刀を床に付いてそのひびきで天皇を目覚めさせた。天皇の病のすでに進んでいることを山県は知らなかったのである。
4日後の7月19日午後、天皇は夕食の卓につき、酒をのんだが、甚だ疲倦(ひけん)の色があり、左右に「どうも眼がかすむようだ」といった。しばらくの後椅子を立ったが、よろめき、御格子(みごうし)の間に倒れた。侍臣は驚愕し仮床を御座の間に設けて寝させたのち、侍医に急報した。侍医が来て診察したところ、体温40度5分、脈搏104、呼吸38を数え、すでに昏睡状態であった。
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22日、天皇はなお嗜眠囈語(しみんげいご)し、さめるとしばしば手をかざして眺めた。俗にこれを手鏡を見ると称し、病者これを行なえばほとんど回復せずとの説あり、左右みなもって不祥となし、顔色蒼ざめた。
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夢声自伝』にいう。
「7月28日の朝日新聞には”行け二重橋へ”と題する名文がのっていた。
――苟(いやしく)も日本に生まれて、都近う住めらん限りのものは、何事を差しおいても請う行け!
 行って二重橋の畔、皇上いたつきに悩ませ給ふ辺に至れ、己が形の己が居る所に従いて移行く様をひしひしと思ひ当るべし。
――生きて何のせんあらんやと謂ふこと勿(なか)れ、多摩川砂利美わしう敷き列べたる御濠の期しについいて、千年の翠(みどり)を静めたる大内山の松ヶ枝を打見上ぐるのみにてだに、何事のおはしますとしもなく、只とうとさに先涙さしぐまるるなり。あはれ青葉めでたく繁れるが中に、わがすめら大君は今や生死の境をぞさまよい給うなる。
――此処に打ち集う老若男女の、或いは天を仰ぎて神明に祈り、或いは地にぬかずきて悲涙にくるる様を見るにつけても、上下挙げて大君を思いまつる我が国ぶりを目の当たりに縮め見る心地して、人をして覚えず襟を正さしむ。幼きがささやかなる手を合わせて只管(ひたすら)に拝める、身なり卑しきが地の上に土下座とやらんして鼻打ちすすりたる、親子兄弟一家を挙げて来れるが、声を呑みて只拍手(かしわで)のみ打ち合わせたる。(以下略)
――行け! 行け! 二重橋の辺に! 人の心かくばかり美わしく尊く表れたる様を、事なからん日見ばやとて見らるるものならんや。げにも是れ末代迄の語り草なり。(略)
 おそらく現代の若人たちは、この一文を読んで失笑するであろう。だが、当時19歳の私はこの記事文を涙なしには読むことが出来なかった。これはいささかの誇張もない。その時そのままの報道文なのである」
しかし天皇の病状は次第に重く、30日午前零時43分。ついに心臓麻痺によって崩御した。

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