じじぃの「人の死にざま_999_青木・存義」

青木存義 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E5%AD%98%E7%BE%A9/28331/
どんぐりころころ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=1FUVGDYi4g0
どんぐりころころ物語: 作詞者・青木存義の生涯 有永壽/著 Google Books
さいころに誰もが口ずさんだであろう「どんぐりころころ」。作詞者・青木存義の軌跡をたどり、小学校唱歌として誕生した過程を、緻密な調査でまとめた初めての伝記。
http://books.google.co.jp/books/about/%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%90%E3%82%8A%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%93%E3%82%8D%E7%89%A9%E8%AA%9E.html?id=8MmWQgAACAAJ&redir_esc=y
どんぐりころころ Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%90%E3%82%8A%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%93%E3%82%8D&sa=X&oi=image_result_group
青木存義 ウィキペディアWikipedia)より
青木存義(あおきながよし、1879年8月15日 - 1935年4月19日)は、日本の国文学者、唱歌作詞家、小説家。
宮城県宮城郡松島町出身。童謡『どんぐりころころ』の作詞者として知られる。宮城県尋常中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)、東京帝国大学文学部卒業。東京音楽学校教授、文部省図書編集部長などを歴任。文部省在職中に『どんぐりころころ』などを始め、文部省唱歌を数多く作りあげた。また青木苫汀の名で『我や人妻』などの小説も書いている。

                          • -

『赤とんぼはなぜ竿の先にとまるのか? 童謡・唱歌を科学する』 稲垣栄洋/著 東京堂出版 2011年発行
池に落ちたどんぐりはどうなるのか? (一部抜粋しています)
  どんぐりころころ 作詞 青木存義 作曲 梁田貞
 一、
  どんぐりころころ どんぶりこ
  お池にはまって さあ大変
  どじょうが出て来て こんにちは
  ぼっちゃん一緒に 遊びましょう
 二、
  どんぐりころころ よろこんで
  しばらく一緒に 遊んだが
  やっぱりお山が 恋しいと
  泣いてはどじょうを 困らせた
「どんぐりころころ どんぐりこ」と歌う子どもたちも多いが、正しくは「どんぐりこ」ではなく「どんぶりこ」である。
童謡に「どじょっこふなっこ」という歌があるように、東北地方では名詞の下に「こ」をつけるので、作詞者の青木存義が宮城県出身であるこの童謡も「どんぐりこ」はよく合うような気もするが、残念ながら東北弁では「どんぐりこ」ではなく「どんぐりっこ」である。
「どんぶりこ」は、水に落ちる音を表現した言葉である。今では「ドブン」とか「ドボン」と表現される詞だろうか。
「どんぶりこ」と同じ言葉には、昔話の桃太郎で「川上から大きな桃がどんぶらこ、どんぶらこ、と流れてきました」でおなじみの「どんぶらこ」がある。「どんぶりこ」や「どんぶらこ」は、水に落ちた表現のほかにも、物が浮き沈みしながら漂うようすを表す意味もあるのである。しかし、「プカプカ流れてきました」では何とも調子が悪い。やはり大きな桃はどんぶらこ、どんぶらこ、と流れた方がいいし、ドングリもドボンと落ちるよりも、どんぶりこ、と落ちた方が大変だという感じがする。
      ・
それにしても、「ドングリ」と「ドジョウ」が出会って一緒に遊ぶというのは。想像力豊かな発想である。
しかし、ドングリとドジョウが出会うというのはいったい、どのような場面なのだろうか。
ドングリの木は、日当たりの良い雑木林に見られる。一方のドジョウは池で暮らしているが、どちらかというと平野部の田んぼや池をすみかとしているため、あまり雑木林の近くの池にいるイメージではない。
ドングリとドジョウは、その生活場所を考えると、なかなか出会うことができないのだ。
じつはドングリとドジョウの組み合わせは作詞者の子ども時代の体験にあると言われている。
「どんぐりころころ」の作詞者である青木存義は、少年のころ読書が大好きで、遅くまで本を読んでは朝寝坊をすることが多かった。そのため、そんな青木少年が喜んで早起きするようにと母親がどんぐりの木がある庭の池に、ドジョウを放したという。おそらく青木存義はそんな少年時代と母親の思い出の情景を童謡にしたのだろうとされる。
つまりドングリは山から庭に植えられたものであり、ドジョウもまた、田んぼや小川から池に移されたものであった。ドングリとドジョウの出会いの場は、まさに青木存義の庭にあったのである。
作詞者の自宅の池で、ドングリとドジョウは出会うことができた。しかし問題が残る。ドジョウは、池の底の泥の中で暮らしている。水の上にドングリが落ちたとして、はたしてドジョウがドングリを見つけることができるのだろうか。
じつは、ドジョウは池の底で暮らしているが、ときどき水面にやってくるのである。
ドジョウはほかの魚と同じようにえら呼吸をしているが、ドジョウの棲む池の底では酸素が欠乏しやすい。そのため、ドジョウは酸素が欠乏すると水面にあがってきて、空気を飲み込み、腸でガス交換を行う腸呼吸をするのである。こうしてドジョウは腸呼吸をするために何度も、池の底と水面とを行ったり来たりしている。
この水面に出てきたようすが、まさに「ドジョウが出てきてこんにちは」なのである。
青木少年が、池のドジョウを楽しみにみることができたのも、ドジョウがときどき水面にあがってきたからなのだろう。