じじじじぃの「人の死にざま_609_西條・八」

西條八十 - あのひと検索 SPYSEE
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マンドリンとギターで聴く西條八十 動画 YouTube
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青い山脈 (1949) 動画 YouTube
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d-score 楽譜 - 西條八十
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西條八十 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
西條八十は、日本の詩人、作詞家、仏文学者。
親戚に外交官の石井菊次郎、久保田貫一郎がいる。長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。
漢字表記は旧字体の西條が正しいが、現在では常用漢字による西条も多く見られる。
【生涯】
東京府出身。1898年(明治31年)。
中学時代に英国人女性から英語を学んだ。正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。早稲田大学在学中に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919年(大正8年)に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。後にフランスへ留学しソルボンヌ大学ポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早大仏文学科教授。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年、日本芸術院会員。
象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき『東京行進曲』、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした『青い山脈』、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー『蘇州夜曲』、古賀政男の故郷風景ともいえる『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、村田英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作『王将』など無数のヒットを放った。
また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。
童謡
・『かなりあ』(『赤い鳥』1918年11月号)
・『肩たたき』
・『鞠と殿様』
・『お月さん』
・『水たまり』
・『西條八十 名作童謡西条八十…100選』
謡曲(流行歌)
・『支那の夜』(作曲:竹岡信幸、歌唱:渡辺はま子、1938年)
・『誰か故郷を想わざる』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1940年)
・『蘇州夜曲』(作曲:服部良一、歌唱:霧島昇渡辺はま子、1940年)
・『青い山脈』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎奈良光枝、1949年)
・『山のかなたに』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1950年)
・『ゲイシャ・ワルツ』(作曲:古賀政男、歌唱:神楽坂はん子、1952年)
・『王将』(作曲:船村徹、歌唱:村田英雄、1961年)

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
西條八十(さいじょうやそ) (1892-1970) 78歳で死亡。 (一部抜粋しています)
詩に、童揺に、流行歌に、ゆくとして可ならざるはない巨大なる天馬のごとき大才を発揮した西條八十は、一方では大正5年結婚の初夜、妻を角(つの)かくしの花嫁姿のままにして、一夜清らかに過させたというのに、やがてその妻が、「70になったらパパもおちついてくれるかしら」と嘆きの声をもたらしたほど、老いてもなお盛んな恋愛遍歴をやめなかった。
その八十(やそ)も昭和35年、妻が脳溢血で死ぬと、ようやく憑(つ)きものが落ちたように「おちつい」た。
そして、旅行先のホテルで、妻の好物だった海老(えび)の生けづくりが出されると、童子のように両手を顔にあてて泣き、はては廊下の隅に逃げて嗚咽(おえつ)するといったありさまであった。
やがて、老いた八十を最後の打撃が襲った。彼が会長をしている「日本音楽著作権協会」の収入を彼が私しているという非難であった。彼は怒りと憎しみで、病床でみずから反論のペンをとった。彼を病床につかせていた病気は喉頭ガンであった。
――昭和44年6月から、突然彼は声が出なくなった。喉頭ガンという病名は知らされなかったが、それ以来彼は訪客のだれにも会わなくなった。
それでも彼は身だしなみを失わず、部屋にはよい匂いのオーデコロンをまいて暮した。その八十が、そのうち口のそばに御飯粒をつけていても気がつかなくなった。また娘の嫩子(ふたばこ)が朝5時ごろゆくと、明けやらぬほの暗いカーテンのかげに、彫像のような寂しい表情で、黙ってうずくまっている姿を見るようになった。
病床の枕もとにはいつも金魚の餌と犬のビスケットがおいてあり、他の金魚と庭の犬にそれをやるのが、彼の唯一の日課となった。
しかし彼は、晩秋の虫のようなかすれ声で、「僕の頭脳(あたま)をこの世に残せないのは惜しいな」と、しみじみつぶやくことがあった。彼はランボオ論につづいて、16世紀以後の80人のフランス詩人の伝記にとりかかっていた。
昭和45年8月、死の数日前の夜、彼は娘に「お前にいい音のする銀の笛をやった夢を見たよ」といった。嫩子は「パパ、私、あかちゃんじゃないわよ」と笑った。
8月11日の夜、嫩子が旅行から帰って、2階の八十の寝室にゆくと、八十はいつになくふきげんで、黙って部屋の外を指さした。
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朝7時ごろ、朝食を持ってあがったお手伝いが、蒼白になって駈けて来て、八十が冷たくなっていて呼吸していないことを知らせた。
眠ったまま息をひきとったとしか思えない死顔で、お手伝いは「先生はこんなきれいな方だったのですね。・・・・」といった。
嫩子は、父の死骸をだれにも見せずに拭(ぬぐ)い清めた。
八十は、松戸の霊園に――その浮気で一生苦しめた妻のそばに葬られた。嫩子はつぶやいた。「パパ、お母さんのとなりに坐って。もう寂しがりやの世界、これで、ジ・エンドだわ」
書物をひらいたかたちの墓碑にはこう刻まれている。
「われらたのしくここにねむる。離ればなれにめぐりあひ、短かき時を愛に生きしふたり、悲しく別れたれど、ここにまた心となりてとこしえに寄りそひねむる。 西條八十」(西條嫩子『父西條八十』より)

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